語り部
きくおうさん

前話のまとめ
○前回のテーマ
「」


第二十八話「隋~唐時代の仏教を知りたいゾウ!(宗派の確立:②三論宗)」
注目ワード中国仏教」「宗派」「」「」「三論宗」「吉蔵」「」「中道」「三論玄義」「無徳正観」「破邪顕正(破邪即顕正)」「八不中道」「真俗二諦」「四重の二諦二蔵三転法輪(教相判釈)

住職さん

今回も、隋~唐代に興隆した「宗派」についてお話ししていくよ。
今回は「三論宗」だね。

<中国仏教の様々な宗派>
天台宗
三論宗今回はここ
三階教(普法宗)
浄土教
律宗
法相宗
禅宗
華厳宗
密教

きくぞう君

たしか、南北朝時代に成立したんだよね?
最初は鳩摩羅什さまが漢訳した『中論』『十二門論』『百論』三論をもとに、門下のお弟子さんたちが「空思想」を研究する、あくまで「学派」のグループだったんだゾウ(※第25話参照)。
それが隋の吉蔵さまの時代になると、「宗派」と呼べるくらい大成したというお話だったね(第26話参照)。

うん、吉蔵は隋の時代に活躍した三大法師の一人。
会稽の嘉祥寺にて三論研究と教化に勤しんでいたので、嘉祥大師 とも称された方だね。

吉蔵は三論宗の伝統のもと、龍樹著作の『中論』『十二門論』、弟子の聖提婆(せいだいば)著作の『百論』といった、インドの中観・空思想を代表する論書を研究・体系化し、その思想を主著『三論玄義』などに纏め、展開させたんだ。

中観や空思想って、大乗仏教の中でもど真ん中の教えだよね!

うん、それらを考察し中国に浸透させたという意味でとても重要な役割を果たした宗派なんだ。
その代表的な教理をお話ししていくよ。

徹底した「否定」の教理

三論宗の代表的な思想
①無得正観(むとくしょうかん)
②破邪顕正(はじゃけんしょう)/破邪即顕正
③八不中道(はっぷちゅうどう)
④真俗二諦(しんぞくにたい)

無得正観(むとくしょうかん)って何だゾウ?

「無得」とは龍樹の「無所得(an-upalambha」という思想に依拠した言葉でね。
「得ることを持たない、捉えることのない」という意味なんだ。
つまり「無得正観」とは「何も得ようとも捉えようともしない、そういったありのままの正しい智慧をもって全てを観る」という意味だね。

三論宗は別名「無得正観宗」とも呼ばれていて、三論宗の教義の核心を表した言葉なんだよ。

「何も得ようとも捉えようともしない」ってどういうことだゾウ?

うん、「空」の理のもとで、全てのものは移ろいゆくので、何か不変の固定的な実体は「無い」と言われるよね。
でも移ろいながらも、全てのものは関わり合い、色んな縁が重なって、この世界に「有る」とも言われる。

「有る」と考えても「無い」と考えても誤りで、「これだ」と捉えることもつかめるものも無い。
それが「無得」なんだ。

前に言っていた「色即是空 空即是色」のことだね!(※第7話参照)

うん、龍樹も「有無の二見を破す(有の見解と無の見解どちらからも離れよ)」と仰っていることそのものだね。
そしてその「有」と「無」のその両端の偏った見解から離れた見方が「中観」であり、その思想を「中道」と言うわけなんだ。
いわゆるこの「中道」「無得正観」の目指す真理なのだけど、三論宗の面白いところは、究極的にはこの中道という概念すら、つかもうしてはいけないと説かれることだね。

ぞぞぞう?
「有ること」にも、「無いこと」にも、その両方から離れた「中道」も得ようとしてはダメってこと??

うん、真理を掴もうとするその姿勢すら執着であり、苦しみのもとと考えるわけだね。
「中」という概念にすら依らない。それが「無得」の核心なんだ。
吉蔵はその部分を徹底化してね。
真理すらも立てないという、いかなるものも否定するこの「無得」の姿勢が吉蔵三論宗の特徴なんだ。
そしてその姿勢そのままで観ることが「無得正観」という真の空観と言うわけだね。

なにも立てず捉えようとしない否定の姿勢そのままが、正しく「空」を観るということなんだね。

じゃあ、「破邪顕正(はじゃけんしょう)」というのはどういうことだゾウ?

字面が格好いいゾウ!!

確かに格好いいよね。悪を破り正義を顕揚するみたいな感じで。
ゲームや漫画なんかでもよく見る漢字だしね。
元々は仏教内で「邪説を打破し、正しい教えを顕か(あきらか)にする」といった意味で広く使われた言葉なんだ。

三論宗では少し違って、これは有ってあれは無いなど何かを固定的に捉えようとする、有得の概念そのものを打破することを含めて「破邪」と言っているんだ。
その上で普通なら「顕正」、つまり別に正しい真理を顕かにする過程があるはずなんだけど、三論宗はそれを立てないんだ。

否定しておきながら、正しい答えを言わないってこと?

これも「無得正観」と同様、否定することがそのまま真理を顕かにするという論理でね。
「破邪」の他に「顕正」を立てるのであれば、それは真理を掴み取ろうとする有得の所業であり、空じなければならない。
「破邪」という全てを破する否定の見方そのままが、正しい真理を顕かにする「顕正」そのものだということで、三論宗では特に「破邪即顕正(破邪がそのまま顕正となる)」と言うんだ。

全てを打破する姿勢そのものが、そのまま「空」「中道」という真理を顕わすことなんだね!
じゃあ「八不中道」は?

これも徹底した否定の論理でね。
生・滅・断・常・一・異・去・来といった、人が陥りやすい八つの両極端の固定観念を否定することで、偏った見解を離れた中道の道へ導こうとするものなんだ。

①不生
②不滅
③不常
④不断 
⑤不一
⑥不異 
⑦不来
⑧不去


これらは龍樹の『中論』に説かれているんだ。

『中論』帰敬偈(鳩摩羅什訳)
不生亦不滅 不常亦不断 
不一亦不異 不来亦不去 
能説是因縁 善滅諸戯論

我稽首礼仏 諸説中第一

生じるのでも滅するのでもなく、常であるのでも断たれるのでもなく、
一つなのでも異なるのでもなく、来るのでも去るのでもない。
能くこの因縁(縁起の理)を説いて、善く諸々の戯論(真理から外れた議論、言葉による概念化)を滅せられた、
あらゆる説者の中で第一であるお釈迦さまに、私は礼拝します。

「生じるのでも滅するのでもなく、常であるのでも断たれるのでもない・・・」
何だかなぞなぞみたいな文章だね。。。

ここでいう「不」というのは、「固定的にこうだと決められるものはない」という意味でね。

様々な因縁によりあらゆるものは影響し合い変化しながら存在し、独立して固定的なものは無い
よって何か固定的で単独にじるわけではなく、完全にするわけでもない。
変わらないなるものがあるのではなく、突然たれるというわけでもない。
完全に同なものがあるのでもなければ、完全になるものがあるわけでもない。
固定的なるという概念も、固定的なるという概念も、変動し固定できるものではない。

あらゆる側面から、両極端の捉われを否定し、中道の道を促しているわけだね。

なるほど!!
人が「こうだ!」と陥りやすい様々な偏った見方の例を挙げて、それを全部否定しているんだね!
それが結果的に中道に導くことになるのか。

「無得正観」「破邪顕正」「八不中道」も、否定することがそのまま中道や空の真理に繋がるといった考え方だったね。
もしかして最後の「真俗二諦(しんぞくにたい)」もそうなのかな??

ご名答。
三論宗の特徴は、その否定の論理にあってね。
「無得」「破邪」「八不」といった、様々な視点からの否定により中道の真理を顕かにしようとするものなんだ。
そして「真俗二諦」はその中でも、「ことば」という視点に注目したものでね。

「ことば」に注目?

うん、まず「真俗二諦」という言葉自体は広く仏教内に見られていて、その理解は諸経論において様々なんだけど、代表的な解釈は次のものなんだ。

<真俗二諦>
・世俗諦
世間一般の理解としての真理。言葉により表現される真理。
・真諦
最高の真実としての真理。勝義諦や第一義諦とも呼ばれる。言葉を越えた真理。

龍樹はこの二諦に関し、著作『中論』で次のように説明していてね。

『中論』第二十四章観四諦品(鳩摩羅什訳)
諸仏依二諦 為衆生説法 
一以世俗諦 二第一義諦
若人不能知 分別於二諦 

則於深仏法 不知真実義
若不依俗諦 不得第一義 

不得第一義 則不得涅槃

諸仏は二つの真理に基づいて、衆生の為に法を説くのである。
一つは世俗諦を用いて、二つには第一義諦を用いてである。
こうした二つの真理の区別を知らない者は、
仏の教えの深い真実の意味を知ることは出来ない。
もし世俗諦を用いなければ、第一義諦を得ることは出来ず、
第一義諦を得ることが出来なければ、涅槃を得ることは出来ない。

仏さまは、僕たちのために世俗諦と第一義諦(真諦)の二つを使って法を説いたとあるね。

うん。
中道など言葉を越えた真理(真諦)はそのままでは私たちには届かない。
そこで仏さまは私たちにも理解できるように、言葉や言葉自体により示される世間一般の真理(世俗諦)を用いたということだね。
真理(真諦)とそこに導くための手段(世俗諦)という、この二層の構造が龍樹の説く二諦説なんだ。

吉蔵の二諦説はここから更に踏み込んだものでね。
たとえ「空」「中道」といった真諦であっても、そこに停留すれば執着となると説くんだ。
だから真諦という概念すらも否定する。そうすれば言葉を越えた本当の真理が顕かになっていくとね。

そこまで否定の??
すごい徹底ぶりだゾウ!!

本当にそうだね。
真諦の上に第三の真理を置こうとはしなかった龍樹との違いはこことなるんだ。
吉蔵はまた次のように考えてね。

お釈迦さまの金言は確かに真理の一面を示すものだけど、真理そのものを表わしたものではない。
なぜなら本当の真理は言葉の概念では表現しきれないから。
仏の説法は真理を指し示し、そこに導くためのものだと。
つまり世俗諦と真諦とは、あくま仏が法を説くための拠り所であり、また同時にそれを否定していくことで言葉を越えた真理へと導く役割を担ったものだと言うんだ。

この二諦の解釈に吉蔵の発揮点があり、それぞれの役割を「於諦(拠り所としての役割)」「教諦(言葉を越えた真理へ導く役割)」と名付けているんだ。
そして、この二諦の否定を幾度も繰り返して言葉を離れた真理に近づいていく。
そんな吉蔵独自の真俗二諦説が「四重の二諦説」なんだ。

四重の二諦

第一重
世俗諦
存在は「有る」

真 諦
存在は「無い(空)」ということが真理である

※吉蔵は四重二諦説においては「空」を「無」と同義に用いる。以後二重・三重・四重でも同様。

 ↓
第一重の二諦は「有る」ことを無視し、「無い(空)」ことにのみ固執していると否定
 ↓
第一重の世俗諦と真諦の考えを合わせたものは第二重では世俗諦に入れ込まれる
 ↓

第二重
世俗諦 
「有る」と「無い(空)」という言説がある

真 諦 
「有る」でも「無い」でもなく「中」が真理である

 ↓
第二重の二諦は「有る」「無い(空)」の二辺を無視し、「中」にのみ固執していると否定
 ↓
第二重の世俗諦と真諦の考えを合わせたものは第三重では世俗諦に入れ込まれる
 ↓

第三重
世俗諦 
「有る」「無い(空)」の二辺と「中」という言説がある

真 諦 
「有る」「無い(空)」の二辺にも「中」にも捉われないことが真理である

 ↓
第三重の二諦は「有る」「無い(空)」の二辺と「中」を離れているが、まだその「言説」に固執していると否定
 ↓
第三重の世俗諦と真諦の考えを合わせたものは第四重では世俗諦に入れ込まれる
 ↓

第四重
世俗諦 
「有る」「無い(空)」「中」と「それら全てに捉われない」とする言説がある

真 諦 
「有る」「無い」「中」といった言葉の概念化を越えた「言忘慮絶(ごんもうりょぜつ)」の境地こそが本当の真理である

一重の二諦、二重の二諦、三重の二諦と否定していって、最後に第四重の二諦へと導いているゾウ!

うん、第四重の真諦は「言忘慮絶(ごんもうりょぜつ)」という言葉の概念を越えた、真の中道の世界。

その真理に導くための教諦として第一~第三重の二諦とそれを否定する過程があり、それを不三(三つの否定)というんだ。
この不三の過程を経ることが、そのまま「言忘慮絶(ごんもうりょぜつ)」の中道を顕わすことになるんだね。

否定がそのまま真理を顕わすことに繋がる!
「破邪即顕正」と同じだゾウ!!

でも、何でこんなに繰り返し説明したんだろう。。。

うん、二つ理由が考えられてね。
一つ目は、これらの繰り返される過程は、執着を破るための、言葉を離れるためのプロセスであるということ。
真理を掴もうとするその姿勢、真理を言語化しようとするその姿勢すらも執着なのだよと、段階的に観想を深めていく一種の修道論と言えるね。

二つ目は、吉蔵がいた当時に存在していた諸学派の偏見を打破するためということ。
例えば、第一重の世俗諦はアビダルマ、第二重の世俗諦は成実学派、第三重・第四重の世俗諦は摂論学派の立場を想定して、それぞれに批判したものとされているね。

言葉を離れた真理に近づくと同時に、他学派の見解も打破する、一挙両得の教えなんだね。

三論宗の教相判釈
(二蔵三転法輪)

三論宗は大乗経典の中では何を一番のお経としたの?
「空」や「中道」の思想をメインにしてるから、やっぱり『般若経』なのかな?

それが、三論宗にも教判と言えるものは確かにあるんだけどね。
「有る」「無い」を越えた中道の観点から見ると、何か一つの経典を最高のものと定めると、それは執着になるといって特別なお経を立てていないんだ。

最高のお経を定めないってどういうことだゾウ?
教相判釈自体はあるのに?

うん、三論宗の教相判釈「二蔵三転法輪」は次のように言うんだ。

吉蔵の二蔵三転法輪の教判①
・二蔵判について
釈尊の全ての教法を「声聞蔵(小乗の教え)」「菩薩蔵(大乗の教え)」の二つに分類する試み。
般若経の註釈『大智度論』(龍樹著、鳩摩羅什漢訳)に依って立てた分類。

・三転法輪について
釈尊一代の説法を次の三つの段階に整理
①根本法輪
『華厳経』の教説のこと。釈尊が悟りを得た直後、主に菩薩を対象として悟りの内容をそのまま説いたもの。一乗という「根本」の教説。
②枝末法輪
『華厳経』『法華経』以外の全ての教説のこと。根本法輪が理解できなかった者のため、それぞれの素養に合わせて様々な大乗・小乗の教えを説いたもの。根本の一乗教説から流れ出た三乗のための「枝末」の教説。
③摂末帰本法輪
『法華経』の教説のこと。枝末法輪で衆生の機根を整えた後、最後に『法華経』を説いて一乗に導いたもの。さまざまな教えを「摂末に根本の教えに帰入」させる教説。

ええっと、「二蔵判」はお釈迦さまの教えを大乗小乗に分けたものなんだね。
そして「三転法輪」は、お釈迦さまが説法をした順番とどんなことが説かれたかを纏めたもので。。。

うーん、、、順番自体は天台宗と似てるよね??
最後に『法華経』が置かれているんだから、『法華経』が最高を考えたわけではないの?

うん、さっきも言ったけど、三論宗の教判において最も大切なことは、「空」や「中道」の立場に立ってこれらのお経を理解すること。
一乗の内容を説くお経が勝れているとか、三乗のお経が劣っているとか、そういう次元で捉えないんだ。
それをすれば特定のお経に執着していることになるからね。

三論宗は、経典を「優劣」ではなく、衆生の素養や状況に応じて説かれたものとする「役割」で考える。
全てのお経に「等・勝・劣」の三義を立てて解釈するんだ。

吉蔵の二蔵三転法輪の教判②
・「等・勝・劣」の三義
全ての経典は「等」「勝」「劣」の三つの見方が出来るとする教判。
例えば、一乗を説く『華厳経』は勝れた菩薩には理解できる内容なので菩薩にとっては「勝れた」教えであるが、理解することができない声聞にとっては「劣った」教えとなる。
反対に小乗の教法を説く『阿含経』などは菩薩にとっては「劣った」教えであるが、その方便の教えしか理解できない声聞たちにとっては「勝れた」教えとなる。
いずれの経典も、受け取る者の機根(性質・素養)によって勝れている点と劣っている点がある。
そして、各々の経典がその最も適した機根の者に対して利益を与える点においては同じであり「等しく」なるということ。

なるほど。。。
確かに何のお経が響くかは、その人の性格や状況によって変わってくるかもしれないね。
そういった意味でお経には優劣を付けることは出来ないってことか。

何ものも特別視しない、得ようとも捉えようともしない、徹底した批判の教えが三論宗なんだね。
やっぱりスゴイ徹底ぶりだゾウ。。

うん、本当にそうだね。
三論宗の代表的な教理は以上となるよ。

三論宗は吉蔵以後もしばらく長安で栄えるんだけど、唐代には天台宗の勢力や玄奘が伝えた瑜伽唯識の思想に押されて次第に衰えていったんだ。
ただ、「空」「中道」という大乗仏教の中心思想を深く考察し広めたことは、他宗派の思想にも大きく影響を残しているんだ。
日本にも吉蔵の弟子慧灌により伝わり、南都六宗の重要な一つとなったよ。

今回はここまで。
また次回も宗派についてのお話だよ。

了解だゾウ!

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<よければこちらも!補足コーナー>

第28話参考論文
論文『二諦における真実義と修道』
論文『四重二諦説について』加藤拓雅 YouTube
『空の論理<中観>仏教の思想3』梶山雄一・上山春平
『釈尊の教えとその展開~中国・日本編~』
『大乗の仏道 仏教概要』
『仏教各宗要義』
『お坊さんも学ぶ仏教学の基礎2 中国・日本編』