語り部
きくおうさん

前話のまとめ
○前回のテーマ
「法ってなんだゾウ?(前編)」

・「法」は全ての時空に通ずる「ことわり」。その中心的なもの=「縁起」「無常」「無我」。

・全てのものは様々な因縁・影響のもと成り立ち(縁起)、そのため常に変化するのだから(無常)、永遠に変わらない実体は無い(無我)。

⇒「法」に目覚めることと、「苦」を離れることの関係性とは今回はここじゃゾウ。


第五話 「法ってなんだゾウ?(後編)」
注目ワード無明」「如実知見」「智慧」「

住職さん

きくぞう君、前に「煩悩(ぼんのう)」の話をした事おぼえてる??
(※第三話参照)

きくぞう君

もちろんだゾウ!
「我執(がしゅう)」「我所執(がしょしゅう)」
苦しみの原因の話だよね。

そうそう。
人は「われ・わがもの」という「煩悩」により、「若いままでいたい」「健康でいたい」「死にたくない」「私のものを失いたくない」と何らかの永遠性・常住性を期待するんだけど、それが決して叶わないから苦しむと説かれるんだ。

んー、「法」のはなしを聞いた後だと、なんだか不思議な気もするよね。
無常(すべては移り変わる)で無我(永遠不滅の我はない)のものに、執着するなんて。

うん、その気付きが仏教の基本だと思うんだ。

「法」はどんな時代、場所においても、変わらない「ことわり」として存在している。問題はそれを見失う私たち人間にあると。そういうことを仏教は言うんだね。
縁起・無常・無我であるはずのものに対して、「われ・わがもの」と常住性・絶対性を期待して生きる。他者と自分を区別する。それをしなければ苦しみは起きないんだけれども、そういう自己意識を持たずにはおれない性(さが)が人にはある。

そういった「法」の「ことわり」に暗い人の性(さが)、根源的な愚かさを「無明(むみょう)」と言ってね。人は「無明」のため執着し、結果人間の生活は苦しみとなるんだと。
だから基本的に仏教はこう説くんだ。

「法」を見失うことで人は苦しむのだから、「法」を見出すことによって、「法」に帰ることによって、「無明」という根源的な無知を打ち消し、苦しみから離れなさいと。

えーっと、つまり「縁起」「無常」「無我」の「ことわり」を見出すことで、「われ・わがもの」という執着から離れるってことかな?
そんなこと出来るの??

もちろん、頭の中で考えるだけで出来るとは説かれていなくてね。
「戒・定・慧(かい・じょう・え)」三学という過程があって、「戒」「定」という修行によって、「ことわり」を見出す「(智)慧」が得られる。そう「基本的」には説かれるんだ。

でたー!
やっぱりお坊さんといったら修行だゾウ!
住職さんもしてるの??
滝に打たれたりとか!!

そういうイメージがあるんだ(笑)
ただ、浄土真宗はそもそもこの「行」をすることが出来ない者たちに向けた教えでもあるからね。
少し「行」に関しても異なった捉え方をするし、「法」との関係性も他宗とは異なった表現を用いているんだ。
このコーナーでお話ししているのは、仏教学の教本に載っている様な基本的な仏教の考え方。
混乱してもいけないから、また別の機会にお話しようかな。

気になる。。。
絶対だゾウ!!

はいはい(^^)/

それで話の続きだけど、行によって「法」を見出す「智慧」が得られるとね。
「ものごとをありのままに知り見る」ことが出来るようになるとされるんだ。

「ありのままに知り見る」??

「如実知見(にょじつちけん)」と言うんだけどね。
人には「われ、わがもの」という煩悩があって、自分なりの世界を見ている。ありのままの世界を見ておらず、それは迷いの世界だというのが、仏教の立場だね。

よく言われるのは色眼鏡のたとえかな。つまり「自分の都合」というフィルター付きの色眼鏡をかけて世の中を見ているようなもので、赤い眼鏡をかければ赤くなるし、青い色眼鏡をかければ、青くなる。ものごとを歪めて認識しているんだね。しかも自分がその色の眼鏡をかけていることに気付いていない。だからそのことに気付く智慧を得て、我執・我所執という色眼鏡が外れれば、ありのままの世界を見ることとなり、結果迷いの世界から抜け出る。
「如実知見」はそういう境地だとされているんだ。

縁起している世間のありようを、そのまま、ありのままで見ることが出来るようになれば、それらへの執着が消えるってことだね!

そうだね。そもそも執着する理由が無くなるんだろうね。縁起して無常で無我なのだから。

以前お話ししたことだけど、仏教はこの世の一切は苦しみの連続と説くんだ(第二話参照)。その原因は煩悩(執着)にあって、今回その執着が消えるという話をしたわけだけど、そしたら今度は「苦」が無くなって「楽」に向かうのかと言えば、そうではないんだ。

うん、覚えているゾウ!
仮に天界のような「楽」に満ちた環境でも、それを失いたくないという執着が生まれて、結局苦しみが生れるんだよね(第三話参照)。

そう。苦しみの種はどこにでもあるということだね。
だから、仏教の目指す「仏」とは、「苦」と「楽」への執着を超えた境地、「苦」と「楽」の二辺に偏らない境地と言われるんだ。この立場を「中(ちゅう)」と呼んだりもするね。

お釈迦さまは自らの死を目前とした最後の旅の中で、「世界は楽しい」と説かれたとあるんだけどね。この「中」という立場に立って色眼鏡を外し、ものごとの本質をありのままに見れば、世界はその様に映るのかもしれないね。

執着することのないありのままの世界って、どんな風に見えるんだろう??
ボクも見てみたいゾウ!!

そうだね。
仏教は「私」が仏に成る教え。そうやって自分のこととして、仏教が何を目指す教えなのか考えることは、とても大切なことだと思うよ。

今回はここまで。次回のテーマは「空(くう)」「縁起」「無常」「無我」の教えをより明瞭にしようとした、この思想を一緒に考えてみよう。

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<よければこちらも!補足コーナー>
 お釈迦さまの入滅後、様々な展開を見せた仏教。一見異なる教えが説かれているように感じられるかもしれませんが、その中心、底流には本コーナーでお話しした様な「仏」や「法」に関する基本的な考え方が流れているように思います。
 それに対し、時代時代の祖師がアプローチした結果、たくさんの派が生れました。それは浄土真宗も例外ではなく、開祖である親鸞聖人も「仏」や「法」と真剣に向き合い、その結果「本願他力」や「お浄土」の教えに出会われました。
 ですので、そういった仏教の基本的な考え方を学ぶことは、浄土真宗の教えを聞かせていただく上でも、思想的背景を知る上でも、大切なことなのかなと受け止めています。
 次回は「空(くう)」の思想を取り上げます。「色即是空(しきそくぜくう)」の「空」です。