【前話のまとめ】
○前回のテーマ
「仏に成るってなんだゾウ?(前編)」
・「仏(ブッダ)」とは、「(仏法の真理に)目覚めた者」という意味。「死んだ人」ではない。
・仏教の説く世界観→この世は苦しみの連続、しかも生まれ変わり死に変わりを繰り返し絶え間ない(輪廻)。
・仏に成った者は、苦しみから解放される(輪廻の輪からも解放される=解脱)。それが仏教の根源的な目的。
・あらゆる望みが叶う天界でさえ、抜け出すべき迷いの世界。仏教の目指す境地、仏とは何か。←今回はここじゃゾウ。
第三話 「仏に成るってなんだゾウ?(後編)」
注目ワード 「四苦八苦」「煩悩」「我執・我所執」「惑・業・苦」「涅槃」
わけがわからないゾウ。。。
天界はきっと色んな美味しいものが食べれて、キレイな服が着れて、立派なお家に住めるんだよね???
そうかもしれないね。
地獄や餓鬼や畜生の世界は分かるけど。。。
欲しいものがなんでも手に入る世界が、なんで苦しみの世界なんだゾウ???
うんうん、そう思うよね。
それじゃあ一緒に考えてみようか。
例えばの話なんだけど、きくぞう君はどんな時に、苦しい、つらいって思うかな?
うーん?
風邪の時はとってもつらいかな。頭は痛くなるし、鼻は詰まって息はしづらいし(*_*)
あー、風邪はつらいよね(~_~;)
他には?
お爺ちゃんのことなんだけど、年を取ってから膝や腰が痛くなってつらかったって言ってたゾウ。
うんうん。ご門徒さんからもよくその話は出るよ。
座るのも大変そうなんだよね(~_~;)
そのお爺ちゃんが亡くなった時も、とっても悲しかったゾウ。
それに、いつかボクも死ぬのかなって怖くなった。。。
親しい人が亡くなった時のつらさは本当に言いようがないよね。「死」への恐怖も。
お釈迦さまは、この世には八つの代表的な苦しみがあると説かれていてね。それを「四苦八苦(しくはっく)」と言うんだ。
<四苦八苦>
①生苦(しょうく)・・・生まれることにより生じる苦しみ
②老苦(ろうく)・・・老いることにより生じる苦しみ
③病苦(びょうく)・・・病により生じる苦しみ
④死苦(しく)・・・死の苦しみ、死を認識することにより生じる苦しみ
⑤愛別離苦(あいべつりく)・・・愛するものと別れる苦しみ
⑥怨憎会苦(おんぞうえく)・・・怨み憎むものに会う苦しみ
⑦求不得苦(ぐふとっく)・・・求めるものが得られない苦しみ
⑧五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・・心身が思うようにならない苦しみ
仏教は、そういったあらゆる「苦しみ」の原因は、人の持つ「煩悩(ぼんのう)」にあると説くんだ。
ボンノウ?
煩わせ(わずらわせ)、悩ませると書いて「煩悩」。執着と言い換えてもいいね。
人は物事に執着し、それが思う様にならないことから苦悩する。
<様々な執着>
「若いままでいたい」
「健康なままでいたい」
「ずっと生きていたい」
「永遠に私のもの」
「私が絶対正しい、彼/彼女は間違っている」
「私の方が優れている、彼/彼女は劣っている」
「我執(がしゅう)」や「我所執(がしょしゅう)」とも呼ばれるけどね。人はあらゆることにつけて「われ」「わがもの」と、「変わらない自分」や、「他者より優れた自分」、「正しい自分」を期待し行動するけど、それが叶わない事から苦しむと説かれるんだ。
しかもそれは繰返しつづく。「惑(わく)・業(ごう)・苦(く)」の「三道」と言ってね。「惑」つまり「煩悩」により、好ましくない「業」(思いと行い)が生じ、それらから「苦」の生活が生まれる。しかも、その「苦」により新たな「惑い」や「業」が呼び込まれる。負のスパイラル(悪循環)だね。
苦しみのドツボにはまるんだね。。
おそろしや、、苦のスパイラル。。。
そうだね。
それは天界も例外じゃなく、確かに寿命も長いし、若いうちは快楽も限りないのだけれど、やがて年老い、衰えが出てくる。
そうすると、とても恵まれた環境であるからこそ、その自分に執着し、それが失われた時の苦しみは大きくなる。その苦しみは、ときに地獄にも勝ると説かれるんだ。
望むものが手に入る環境でも、苦しみが生まれるんだね。
じゃあ、どうしたら苦しみは無くなるの???
そこでお釈迦さまは、そもそもの苦しみの原因である「煩悩(執着)」を断ち切る必要があると説かれるんだ。
このことを「涅槃(ねはん)」と言うんだよ。
ネハン???
「(煩悩の火を)吹き消す事」を意味する、インドの言葉「ニルヴァーナ」に漢字を当てたものでね。
よく「仏(ほとけ)」の「心静かな状態」を表わす言葉として、お経に出てくるんだ。
この「煩悩」を離れた「仏」の境地、「涅槃(ねはん)」に至るために、「法」に目覚めなさいと、仏教は説くんだよ。
ぞぞう。。。ちょっとまって!整理するゾウ。。。
ぼくらは迷いの世界に生きていて、地獄みたいな場所だけでなく、例えば天界みたいな場所にいても、「煩悩(ぼんのう)」があるから「この自分がずっと続いてほしい」と執着して、でもそれが思うようにならないから、苦しむんだよね?
だから苦しみを抜け出すために、その原因である「煩悩」を離れなさいとお釈迦さまは言うんだ。
そのために「法」に目覚める必要があるってことで。。。
そうか!
それが「(法に)目覚めた者」であるブッダ。
仏教の目指す「仏」なんだね!!
ファイナルアンサー!!!
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・これで合ってる(ーー;)???
うん、そうだと思うよ(^^;)
ふー、よかったゾウ。。。
なんだか、いっぺんに色々考えすぎて・・・頭が疲れたゾウ・・( ゚Д゚)
「法」のことが・・・、とっても気になるんだけど・・・(ノД`)・゜・。
そうだね。「法」あってこその「仏」。
「仏」の事を説明するには、「法」は絶対欠かせない部分だけど、今回はたくさんお話したから疲れたよね。
少しお休みして、また次回仏教の根幹となるこの「法」について、一緒に考えよう。
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<よければこちらも!補足コーナー>
「苦」を離れる教えだからといって、では「楽」にいこうという発想は、仏教にはありません。
地獄に示される様な「苦」も、天界に示されるような「楽」も、同じ迷いの世界。どんなに恵まれた環境に見えても、逆に執着の対象は増え、結果苦悩が生まれる。苦しみの種はどんな立場の人にもあるのだと、仏教は説きます。
苦悩の原因である煩悩を離れるための「法」とは何か。次回また、きくぞう君と一緒にお話しします。