語り部
きくおうさん

前話のまとめ
○前回のテーマ
「仏に成るってなんだゾウ?(後編)」

・「望むもの」「望む環境」を手に入れることが、仏教の目的、つまり「仏」ではない。

・仮に天国の様な恵まれた環境にいても、それを維持しようと求める煩悩があり(若いままでいたい、健康でいたい、死にたくない等)、それは決して叶わない故に苦しむ。

・あらゆる苦しみの原因はこの「煩悩(執着)」にある。

・「法」に目覚めることにより、この「煩悩」を断ち切った者が「仏」。

⇒「法」とはなにか今回はここじゃゾウ。


第四話 「法ってなんだゾウ?(前編)」
注目ワード縁起」「無常」「無我」「三法印」「四法印

きくぞう君

うーん、僕たちの苦しみの原因は「煩悩」にあって、「法」に目覚め仏に成ったら、その「煩悩」から離れて苦しみも無くなるんだよね?

住職さん

そう説かれているね。

「法」って「法律」のこと?
お釈迦さまが説いたものなんだよね?お釈迦さまが作ったの??

なるほど。。。「法」と聞くと、そう連想しちゃうかもね。
よし、今回も一緒に考えてみよう。

まずこの「法」という言葉だけど、元々はインドのお経の言葉「ダルマ」の訳語なんだ。

「ダルマ」って、「だるまさんが転んだ」の?

うん、だるまさんは禅宗の開祖 達磨大使(だるまたいし)がモデルみたいだけど、この方もきっと「法」の原語「ダルマ」から名前を付けられたんだろうね。

この「ダルマ」。確かに「法」と漢訳されるんだけど、それだとさっき、きくぞう君が言ったみたいに「法律」のイメージに引っ張られるかもしれない。「法律」は、あくまで「人」が定めるルール。
区別化するために、「真理」や「理(ことわり)」と言い換えた方が誤解がないと思うんだ。

「ことわり」?

そう「理(ことわり)」。「人」の営みも含まれるんだけど、更にそれを超えた、全ての時間と空間に存在し通ずる不変の「ことわり」という意味だね。

だからお釈迦さまが「法」を作ったというとちょっと違うと思う。「法」つまり「ことわり」は、もともと在って、それを歴史上初めて皆に説かれた方が、お釈迦さまとされているんだ。

ぞぞう!
それじゃあ、お釈迦さまは「法」の発明者じゃなく、発見者ってこと!?

 

なるほど、「発見者」か。そうかもしれないね。

この「法」は本来、言葉では表現出来ないもの、言葉を超えたものと言われるんだけどね。お釈迦さまは状況に応じて色々な譬え、形を用いて、この「法」を説かれた。もちろんこれ一つで「法」のすべてが言い表されているとは全く思わないけど、その中心となる教えは何かと言えば、「縁起」かなと思うんだ。
お経にも次のような有名な言葉があるしね。

「縁起を見る者は法を見る 法を見る者は縁起を見る」
『マッジマ・ニカーヤ』より

「えんぎ」?
「茶柱が立って縁起がいい」のあの「縁起」??

そうそう、その「縁起」 。元々は仏教の言葉なんだよ。
現代語では吉凶の前触れを表す言葉としてよく用いられるんだけど、本来の意味は違うんだ。

「縁って起こる(よっておこる)」と書いて「縁起」。つまり「全てのものごとは、様々な原因に縁って起きる」「様々な原因が相依って結果が起こる」という意味だね。
 だから仏教は、何か一つの原因、例えば神様によって全てが生まれるといった一神教の立場は取らないし(一因説)、だからといって全てのものごとは偶然起こるという立場(無因説)も取らないんだ。

「縁起」って元々そういう意味なんだ!?
どんなことにも、必ず色んな原因があるってことだね!

そう。その色んな原因、影響がより集まって、私たちと世界は成立していると説かれるんだ。
これが「縁起」。仏教の教えの根幹にはこの考え方があってね。
そこから派生して、仏教は「無常(むじょう)」「無我(むが)」という教えを説くんだ。

「むじょう」と「むが」??なにそれ??
『ああ、むじょう』と関係あるかな!?
アン・ルイスの。

残念ながら無いかな(笑)

(レ・ミゼラブルじゃなくて、そっちなんだ。。。)
 
それは「無情」。
「無常」とは「常なるものは無い」ということ。
「この世にあるものは、様々な原因が影響し合い、形作られているのだから、常に変化してとどまることがない」という意味だよ。

ん~、「縁起」だから「無常」ってこと!?

そうだね。
そして「縁起」だから「無常」であり、「無我(むが)」でもあると言われるんだ。「無我」というのは「我が無い」ということ。
「我(が)」は原語を「アートマン」といってね。この言葉は少し説明がいるんだけど、仏典においてこの言葉は、①確立すべき「自己」を意味する時と、②「たましい」の様な意味合いで用いられる時があるんだ。

①は「わたし」や「わたしのもの」という執着を離れた「自己」を確立しなさいという文脈で。
②は存在をその存在たらしめている不変の「何か」、絶対的な「たましい」のようなものは無いですよという文脈で。

つまり「無我」というのは、・・・・・・んん?

・・・きくぞう君(ボソッ)。

ゆらゆら~

・・・Zzz・・・・・・はぁっ!!!

・・・ね、ねてないゾウ!!
ちょっとボーっとしてただけだゾウ!

だいじょうぶ(笑)?
たましいみたいなの出てたよ( ̄▽ ̄;)

ごめん、少しややこし言い方だったね。
まあとにかく「全てのものは様々な因縁のもと影響を受け常に変化しているのだから、拠り所としての揺るぎない確固たる私や私のものはどこにも存在しない
それが「無我」なんだ。

うーん。ちょっとまとめるゾウ。。。
つまりぼくらの世界にあるものは、色んなものが影響し合って成り立っているから(縁起)、変化していくし(無常)、だからぼくにとって永遠に変わらない絶対的なものは無い(無我)ってことだよね??

「縁起」だから「無常」だし「無我」なんだゾウ。

そう。その三つは同じ線上で考えられていることかなと思うんだ。
この「無常」「無我」に、前回話した「涅槃」の教えを加えて、「三法印(さんぽういん)」と呼ばれていてね。仏教の「法」の三つの旗印とされるんだ。
またはこれに「一切皆苦(この世は苦しみの連続)」の考え方を加えて、「四法印(しほういん)」と呼ばれることもあるよ。

三法印
①諸行無常

様々な因縁により形作られたすべてのものは、刻々と変化してとどまることがない
②諸法無我

すべてのものに永遠不滅の実体(我)はない
③涅槃寂静

煩悩の火が吹き消された状態は、苦しみの無い安穏の世界である
※これらに「一切皆苦(この世の一切は苦しみの連続)」を加えると「四法印」

その三つ(四つ)が「法」のシンボルなんだね!

でも待つゾウ。。。それは分かったんだけど、その「法」に目覚めることが、何で「苦しみ」から離れることに繋がるんだゾウ???

うん、縁起や無常・無我の「法」と、人の持つ苦しみの関係性についてだね。
次回はこのことについて一緒に考えてみよう。

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<よければこちらも!補足コーナー>
 今回お話しした、「法」がまず全ての前提としてあり、それをお釈迦さまが説かれたという視点は、仏教思想を考える上において、とても重要なことかなと思います。
 お経に、病床のヴァッカリというお弟子さんをお釈迦さまが見舞うエピソードがあります。その際お釈迦さまは、お釈迦さまを参詣できないと消沈するヴァッカリに、「私のこの朽ち行く身体を見て何になる。この身体を見るものが仏をみるのではなく、法を見るものこそが仏を見るのだ」と説かれます。仏であるお釈迦さまより「法」を見ろ。ひいてはそのことが「仏」を見ることになるのだと。
 「仏」を「仏」たらしめているのは「法」だと、「仏」よりも「法」が根元的だと、ここでは示されているのだと思います。
 仏教はひとりひとりの心の動き、ふるまいを問題視しますが、その一方でそういった個々の人間の心、ふるまいがどうであろうと、変わらない時空を貫く「法」の存在、「ことわり」があるのだと説きます。そういった側面があることも仏教のとても重要な特徴だと思います。
 その「法」と私たちひとりひとりの心の働き、苦しみ。それがどの様に関わっているのか。次話はこの事についてお話しします。