きくひと君

NATUYASUMI!

ついに待ちに待った夏休みだゾウ!!
花火に虫取りに海水浴、スイカ割り。。。
やりたいことがいっぱいだゾ~ウ!

あ!
そういえばもうすぐお盆がある(”◇”)ゞ
また住職さんに聞いて予習しておかなくちゃ!

さあ、行くゾウ!

住職さん、来たよ!
お盆について教えて!!

住職さん

やあ、きくひと君。

あぁ、確かにもうすぐお盆の時期だよね。
いいよ!

きくひと君はお盆にどんなイメージを持ってるのかな?

ん~、そうだな~?

まず親戚の人がいっぱい集まってきて、お仏壇の前でお経を唱えるよね。
それに盆提灯(ぼんちょうちん)や、ナスやキュウリの置物を飾ったりするって聞いたことがあるゾウ。

盆提灯
キュウリの馬とナスの牛

うんうん、なるほど。確かにそうだね。
昔から日本には、お盆に亡くなった人が帰ってくるという考え方があるんだけどね。
盆灯篭(ぼんどうろう)や盆提灯はその人達が迷わないための目印だし、キュウリやナスで作った馬や牛は亡くなられた方が乗る乗り物と考えられているんだ。

こちらの世界に来る時は足の速いキュウリの馬、あちらの世界に戻る時は名残惜しいから足の遅いナスの牛といった具合だね。
面白い考え方だよね。

なるほど~。そういう意味があるんだね。馬さんと牛さんも、なんだか可愛いね!

んん?
でも、あれ???
そういえば、うちの家には盆提灯も無いし、ナスやキュウリの飾りもしていなかった気がするんだけど。。。

うんうん、いいことに気づいたね。
実は、浄土真宗では基本的にそれらをお飾りしないんだ。

大切なことだから、今回はその理由も含めてお話ししようね。

お願いしますだゾウ!

うん、一緒に考えてみよう。

まず「お盆」という言葉なんだけどね。
「お盆」というのは、「盂蘭盆(うらぼん)」というのが正式な名称なんだ。
その「うらぼん」の「うら」を省略して、私たちは「盆(ぼん)」と呼んでいるんだよ。

そうなんだ!
「うらぼん」って何なの???

うん、元々はインドの言語、サンスクリット語の「ウランバナ」からきた言葉だと言われていてね。
その言葉が中国に渡り、漢字を当てられたものが「盂蘭盆(うらぼん)」なんだ。

ふ~ん。
どういう意味なの?

直訳すると、「逆さに吊るされた者」「上に吊るされた者」かな。
これだけだと意味が分からないかもしれないけど、伝統的にはそういった苦しみを持つ者として、「餓鬼(がき)」に生まれた者を指した言葉なんだ。

あ、「餓鬼(がき)」なら知っているゾウ!
いつもお腹を空かしているんだよね?

うん、仏教の説く「輪廻(りんね)」の生まれ変わり先の一つだね。
※第二話「仏に成るってなんだゾウ?(前編)」参照

ちなみに「盂蘭盆」にはもう一つ、「ご飯」を意味する「オーダナ」からきたという学説もあってね。

「オーダナ」の発音が変わって「ウラン」。それに器(うつわ)を意味する「盆」が合わさって「盂蘭盆(うらぼん)」。
合わせて「ご飯が盛られた器」で、餓鬼へのお供え物を意味するとされるんだ。

●盂蘭盆(うらぼん)のザックリ語義解釈

A説 
サンスクリット語「ウランバナ(ullambana)」からきたとする説。意味は「逆さに吊るされた者(それによって苦しむ者)」。伝統的に「餓鬼」の境遇に生まれた者の事を指す。
B説
サンスクリット語「オーダナ(odana)」からきたとする説。意味は「ご飯」。それが文法上や連声上の問題で「ウラン」と読まれ、そこに「容器」を意味する「盆」がくっついて、「盂蘭盆」となったとする解釈。餓鬼のため用意する「ご飯を盛られた器(うつわ)」「お供え物」のことを意味する。

どっちも「餓鬼」に関係したことなんだね?

うん、そうだね。
どちらの解釈にしても、「お盆」つまり「盂蘭盆」は、「餓鬼供養(がきくよう)」に関係する言葉なんだ。

その「餓鬼供養」をテーマにしたお経が『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』。
お盆の行事は、このお経に由来すると考えられているんだよ。

お盆の元になったお経!?
いったいどんなことが説かれているの??

よし。
それじゃあ今回もあるものを使って、『盂蘭盆経』の物語をお話ししてみよう。

がさごそ、がさごそ(準備中)

もしかして、またあれを作ったの!?

はじまりはじまり~。

盂蘭盆経ものがたり
(風船人形劇)

BGM(チャ~チャチャ~チャラ~、チャ~ララ~♪)

「盂蘭盆経ものがたり」


むかしむかしインドのあるところに、目連(もくれん)というお坊さんがいました。
目連尊者は、お釈迦さまの十人の優秀な弟子の一人であり、神通第一、今でいう超能力のようなものに特に優れたお坊さんでした。
目連尊者はある時、昔亡くなった母親の様子がどうしても気になり、その持前の神通力によって探しに行きました。


しかし、いると思っていた天界にその姿はありませんでした。
他にも様々な所を探しましたが、どこにも見つかりません。
まさかと思い、餓鬼の世界を探しに行くと、、、


そこには見るも無惨に餓鬼となり、痩せ衰えた母親の姿がありました。
目連尊者は驚き慌てて、茶碗にいっぱいのご飯を盛って手渡しました。


しかし母親がそのご飯に触れた瞬間、、、


ボッとあっという間に火がついて、ご飯は燃え尽きてしまいました。
食べられると思っていたご飯が燃え尽き、母親は泣き叫びました。
そのあまりの姿を見て、目連尊者も思わず涙を流しました。


目連尊者はこのことをお釈迦さまに相談しました。
これを受けお釈迦さまは次のように言いました。
「目連よ、お前は大変優れた弟子である。しかしお前一人の力ではどうすることもできない。4月より3カ月間の雨季の間、僧侶たちは安居(あんご)という修行期間に入る。その最終日の7月15日、自恣(じし)という修行の反省会に集まった僧侶達に心を込めて施しをしなさい。そうすればお前の母親は苦しみから抜け出るでしょう。」


目連尊者はその言葉どおりに、7月15日に安居の反省会に集まった僧侶たちに心を込めて施しをしました。
そして「この供物が母親のためになれ」と願いました。
すると、、、


なんということでしょう。。。
餓鬼となった母親のもとにはそれはそれは見事なお供え物が届きました。


そして母親は、長く続くはずであった餓鬼の苦しみから抜け出て、天界へと昇っていきました。


それを見た目連尊者と僧侶たちは喜びのあまり躍り上がりました。
このお話しが後に、盆法要の元となり、盆踊りの元となったとも言われております。

おしまい☆

※バルーン人形制作:バルーン住職
※他寺でのお説教と幼稚園でのご法話の際、披露したものです。分かりやすく少々脚色しています。

以上が盂蘭盆経の物語の要約だよ。

お盆を7月中頃あたりにするのは、僧侶たちの安居(あんご)という修行の最終日が関係しているわけだね(※地域によっては8月中旬に盆参りをします)。
お話しは分かった?

うん、分かったゾウ。

でも餓鬼に成るとずっとお腹を空かせていて、食べ物に触れることも出来ないんだね。。
怖いぞう、、、
お爺ちゃんが餓鬼の世界に行ってたらどうしよう。。。

ごめん、少し怖いお話だったかな。

このお話にある様に、亡くなった人がより良い境遇に向かうよう、生きている人が追って善行をすること、その功徳を振り向けることを、「追善供養(ついぜんくよう)」や「追善回向(ついぜんえこう)」というんだけどね。

盂蘭盆経はまさに「The 追善供養」「Mr. 追善供養」とも言えるお経かなと思うんだ。

じゃあお盆は、お爺ちゃんやご先祖さま達のために、その追善供養をするの??
ボクに出来るのかな(~_~;)

うん、ところがね。
浄土真宗の開祖 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は次のような言葉を遺していてね。

【原文】
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。」
【現代語訳】
「親鸞は父母の追善供養のためといって、お念仏をしたことは一度もありません。」

『歎異抄(たんにしょう)』第五条

お念仏とお布施(お供え)という違いはあるけど、親鸞聖人は「私は追善供養をしたことはありません。」とはっきり仰っているんだ。

「追善供養をしない」
浄土真宗の大きな特色の一つだね。

そうなの!?
じゃあ、お盆は何のためにしているの??

うん、親鸞聖人の言葉には続きがあってね。
「自分の力で修めた善なら、人に振り向ける事(追善供養)も可能かもしれないが、お念仏はそういったものじゃないよ」と仰られるんだ。

仏教の究極の目標は「法」に目覚め「仏(ほとけ)」に成ることだとされるんだけどね。
(※「法」や「仏」に関しては『住職さんに聞くゾウ!』2話~5話で触れています。)
そのための善行・修行も満足にすることが出来ない「私」に対して、「法」の方から歩み寄ってきた姿、働きかけてくださった姿が「阿弥陀さま」であり「南無阿弥陀仏」だと説かれるんだ。

まあ、追善供養・追善回向だって立派な善行だからね。自分のための善行すら満足に出来ない者には、中々ハードルが高いということも言い含められているのかもしれないね。

そんな「私」に対して「お前を救う」と働きかけられるのが「南無阿弥陀仏」のお念仏。その働きかけにお任せすることによって、阿弥陀様のお浄土に生まれ仏に成るというのが浄土真宗の教えの根幹なんだ。

浄土真宗の「仏」への道

●「法」に目覚めて「仏」に成ることから程遠い「私」。「仏」に成るための善行を満足に出来ない「私」。
「法」 ←(はるか遠い)ー 「私」

●そんな「私」のために「法」が親しみやすい姿をとり近づいてくる。
「法」 → 「阿弥陀仏」 → 「南無阿弥陀仏」 → 「私」

●「南無阿弥陀仏」という私を救おうとする呼びかけにお任せすることにより、死後「浄土」に生まれ「仏」となる。

本当は「仏(ほとけ)」に成りようがないボクらを、「仏」にしようという働きが「南無阿弥陀仏」なんだね。
すごいことだね。。。

でも、お爺ちゃんやご先祖さまも、阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまに成っているのなら安心だゾウ!

そうだね。そのお味わいのもと、お勤めするのが浄土真宗のお盆かなと思うんだ。

そして、お浄土に生まれ仏に成られたご先祖さまは、そこでじっとしているわけじゃなくね。
私たちの世界に来られて、「仏さまの教えに出会えよ」と、「仏に成る教えに出会えよ」と、常に働きかけてくださる。
こう説かれているんだ。

今もずっと働きかけている。。。

そうか!分かったゾウ。
だから浄土真宗のお盆は、盆提灯やキュウリやナスの置物を飾らないんだね。
お盆の間だけじゃなく、常に仏さまに成ってボクたちを見守ってくれているんだから!

そういう風にお味わいしているよ。

「先祖供養」と聞くと、どうも字の表面的な意味から「供え養う」というイメージが付いてしまいがちなんだけどね。
これだと、亡き人を下に見ているような印象があるよね。

でも浄土真宗のお盆は、仏に成られたご先祖さまの「教えに出会えよ」という働きかけにより成り立つものであり、むしろ私たちがご法縁を頂く場所。こう受け止めると、お盆のお勤めもまた全く違った印象に見えてくるんじゃないかな。

だからお盆は、亡き人に感謝と敬いの気持ちを持ってお勤めするのが大切なんじゃないかなと思うよ。

仏さまの教えに出会う場所だし、そのご縁を作ってくれたご先祖さまにありがとうと伝える場所なんだね。

うん、分かったゾウ!
阿弥陀さま、お爺ちゃん、ご先祖さま、ありがとう。

なんまんだぶ

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