常高寺山門横にある掲示板のことばです。お寺に寄られた際はのぞいてみてください!

現在の掲示板

<法語解説>
 西本願寺の公式インスタグラムの言葉から頂きました。
 仏教には、教えを説くお釈迦さまは「お医者さま」で、それを聞く私たちは「患者」であるという有名な譬え話(たとえばなし)があります。言い得て妙の譬えだなと。
 自身を「病気」だと自覚することによって、初めて「お医者さま」や「薬」の有難みが分かります。お釈迦さまは、この世に生きる私たちは、皆病んでおり、しかもそれに気づいていないと説かれました。

「私こそが正しい」
「永遠に私のもの」
「いつまでも生きたい」

「健康なままでいたい」

 変わらない、絶対的なものは無いこの世の中で、それと相反するもの、叶わないものを求めてしまう。自分の都合のいいように世界を見てしまう。しかしそれは決して叶わないので苦しむ。そういった根源的な性(さが)、病気を私たちは持っているのだと言われるのです。そういった私に気づかされることが仏教の出発点になります。
 その病気の「薬」として、その人その人の性質に合わせて処方されたもの、説かれたものが、お経の言葉であり、様々な修行だと思います。それらによって苦しみから抜け出た者が「仏(ほとけ)」と言われます。
 お浄土やお念仏の教えは、その中でも特に末期。「末法」の世を生きる私たちに向けて用意された「薬」だと思います。本来助かりようのない者が、「仏(ほとけ)」へと成らせていただく道。その不思議な道を聞かせていただくのが、浄土真宗のお聴聞であり、ご法座の場所ではないかと。ご興味のある方はぜひお参りください。

過去の掲示板

7月~8月の掲示板(令和4年)

<法語解説>
 「供養(くよう)」と聞くと、人によっては言葉の字面に引っ張られて、亡き人を養っているような、下に見ているような印象が、生まれてしまいます。つい「供養してあげなければ」「供養しないとかわいそう」といった、言葉を選んでしまいがちです。
 本来、「供養」の原語とされる、インドの言葉「プージャー」は、他者への「敬い」を意味します。
 ご法事は、亡き人を偲ぶ節目の機会であると同時に、私が仏法、つまり仏さまの教えに触れる大切な場所です。仏「法」に出会う「事」と書いて「法事」ですね。
 それは先立った大切な人達から私たちが頂いた、ご法縁という贈り物です。こう考えると、「供養」の印象も違ったものに見えるような気がします。
 感謝と敬いの気持ちを持って、手を合わせることが大切なのかなと思います。


5月~6月の掲示板(令和4年)

<法語解説>
 西本願寺の公式インスタグラムから頂きました。とてもシンプルですが、人間に対する仏教の基本的な捉え方かなと思います。
 あるお経に、アングリマーラ(本名はアヒンサ)という人物のエピソードが説かれています。「アングリ・マーラ」とは「指で作った首飾り」という意味です。多くの人々を殺し、その指を切り取って首飾りにしたとされる(こわいですね。。。)、仏典でとても有名な人物です。後にこのアングリマーラはお釈迦さまのお弟子となって悟りを得ます。
 そもそもこのアングリマーラは何故殺人鬼になったのでしょうか。アングリマーラは元々、ある高名なバラモンの優秀な弟子でした。美青年でもあったようです。妻と不倫をしたとの疑いにより(えん罪)、師匠であるバラモンに恨まれ、次のように言われます。
「1000人(一説には100人)の人を殺し、その指を切り取り、繋いで首飾りにしなさい。そうすれば、お前の修行は完成するだろう」。
当然嘘なのですが、アングリマーラは戸惑いながらも師匠の言葉であるならと、それを実行に移してしまいます。999人まで殺し、いよいよ最後の1人を殺さんとした時、お釈迦さまに出会われたというわけです。
 アングリマーラの説話は、「人は環境さえ整えば、どんなことでもしてしまう」ということを伝えてくれます。親鸞聖人も次のような言葉を残されたと言われます。

「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし(人は誰でもしかるべき縁が働けば、どんな行いでもするものである)
『歎異抄 第13条』より

 私が人を殺さないでいられるのは、私の性根が善だからではなく、そういったご縁が今、私に働いていないからです。周りの環境がそうであれば、自分を正しいものと正当化してどんなことでもしてしまう。それが私です。この自覚が仏教の出発点だと思います。
 仏教は、「無常の世の中において絶対的な正しさ、価値基準は存在しない」という法を説きます。「人間は危うい」。だからこそ法を仰ぎ、自分自身のふるまいを見つめなおす。時に自身の正しさを疑い、可能な範囲で丁寧に生きていく。それが出来ない性根の私なのだけど、そんな私に法は常に働きかけている。仏さまという姿を取って見守っていてくださる。それが、仏さまの働きの中で生きていくということなのかなと、こうお味わいしています。


3月~4月の掲示板(令和4年)

<法語解説>
 私たちは、人生の中で価値観や考え方を身につけていきます。経験を積むほど自信も生まれ、どこかでその価値観は、世間一般に通ずる基準だと考えてしまう「私」がいるように思います。
 「私の方が正しいはず」「普通ならこうするのに」と、「私」を基準とする気持ち、「私」を「善(ぜん)」とする気持ちから他者を責め、下に見てしまう。それは争いや苦しみを生む原因となります。
 仏教は「ものごとは常に移り変わり、不変で固定的なものは存在しない」という「無常(むじょう)」「無我(むが)」の教えを説きます。万人に通ずる変わらない価値観やものごとの捉え方は存在しない。時と共に変化し、状況や立場が異なれば、「善」や「正しさ」というものはぐるりとその姿を変えます。
 「私」がそうであるように、「相手」にも自身の経験に基づく「正しさ」があります。
 「正しさ」に固執しがちな「私」に気づかされ、自らの姿勢を見つめなおし、他者の考え方を尊重する心が育てられていく。大切なことを気づかせてくれる言葉かと思います。
※同派(浄土真宗本願寺派)の僧侶の方々が制作した、直枉会(じきおうかい)カレンダーの言葉から頂きました。


1月~2月の掲示板(令和4年)

<法語解説>
 原文は「Today is the first day of the rest of your life」。映画「アメリカン・ビューティー」のセリフにも使われた、有名な格言です。
 仏教には「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という教えがあります。「この世に生まれたものは、どんなものであっても時間と共に移り変わり、その形を滅していく」という意味です。
 私たちは人として生を受けたからには必ず時間と共に年を重ねます。時には病気や事故など様々な影響もあり、どんな立場の人であっても必ず、人として「死」という形を迎えます。昨日から続くこの私の「命」が、明日も続く保証はどこにもありません。一見当たり前のこと。しかしこの一見当たり前のことを見失いがち、目を背けがちになるのが私たち人間なのかなと思います。
 お寺という空間や様々な仏事は、亡き人を偲ぶご縁ともなりますが、この「私は必ず死ぬ」という事実に目を向けさせていただく、ご法縁でもあります。
 一日一日を大切に。大切な事を気づかせてくれる言葉かなと思います。


12月の掲示板(令和3年)

<法語解説>
 仏教は「わたし」が「仏(ほとけ)」に成ることを目標とした教えです。
 仏さまとは、移り行く世界の中で「永遠に続くものはない」「絶対的な正しさはない」とものごとをありのままに捉え、自らに固執する思いから離れた方です。
 言うのは簡単ですが、とても難しい。必ずどこか自分を基準に考えてしまう「わたし」がいます。 
 それでもほんの少しでもいいので、「仏さまはこんな時どうするだろう?」「仏さまならどう考えるだろう?」と日々の生活を見つめさせていただく。親の背中を見て子供が育つように、仏さまの教えを指針として、自らを見つめなおし、時に自身の正しさを疑う。そうして人の考えを受け入れ尊重する心の下地が育てられていく。仏さまの教えと共に生きる上での大切なご利益(りやく)かなと思います。

 そしてそうすると仏さまとは程遠い、「私に固執する思い、私が正しいとする思い」から決して離れることが出来ない「わたし」が浮き彫りとなる。そういった「わたし」が、救いの目当てのど真ん中に置かれた教えが浄土真宗であり、「南無阿弥陀仏」というお念仏の教えだと思います。


10~11月の掲示板(令和3年)

<法語解説>
 「我慢」というと私たちの視点からみれば一見美徳に思えます。しかしながら、仏さまの視点からみると「私の方が正しい、相手が間違っている」という、自身の思いに固執して相手を下に見る心の表れとされます。
 私が「我慢」している時は、相手も「我慢」しているかもしれません。「あ、今我慢しているな」と思ったら、一度落ち着いて自身の言動や周囲の状況を見つめなおしてみるのもいいかもしれません。