
【前話のまとめ】
○前回のテーマ
「」
第二十六話「隋~唐時代の仏教を知りたいゾウ!」
注目ワード 「中国仏教」「訳経僧」「隋」「唐」「仏教治国策」「隋三大法師」「浄影寺の慧遠」「天台大師 智顗」「嘉祥大師 吉蔵」「玄奘」「大唐西域記」「密教の伝来」「善無畏」「金剛智」「不空」「会昌の廃仏」

今回からは隋代以降の中国仏教の話だね。
五胡十六国時代~南北朝時代を経て久しぶりに中華が統一されたわけだけど、どんな時代だったのかな?

隋・唐時代は長い戦乱期を経て南北は統一され、政治が安定した時代だね。
それに伴い、禅や浄土信仰など実践的なものが流行する傾向にあった北朝の仏教と、南朝の学問的傾向にある仏教が融合し、新しい展開をしたんだ。
それを示す端的なものが「宗派」の形成と発展であり、外来の仏教が中国の思想の中に溶け込んで、本当の意味で中国独自の仏教が確立した時代なんだ。
隋時代(581-618年)

まずは国政と仏教の関係についてだね。
以前に、隋の前身である北周の時代は武帝による廃仏政策(574-578年)で、仏教は大きな打撃を受けたと言う話をしたよね?

うん、覚えているゾウ。。
お坊さんが辞めさせられたり、お寺やお経が燃やされたりしたんだよね。。

大変な時代だったよね。
その反省を踏まえ、一転隋の時代には、初代皇帝の文帝楊堅(在位581-604)による大規模な仏教復興政策が行われたんだ。
儒教や道教ではなく仏教に重きを置いた治国策だね。
文帝の在位期間には、得度23万人、寺院の建立3792ヵ寺、仏像の造営10万6千体、写経46蔵13万巻など、仏教の復興を示す膨大な記録が挙げられているんだ。
<文帝楊堅による仏教治国策>
・長安に新都の大興城を築き、その中心に国寺として大興善寺を建立
・高僧の積極的な登用
・中国諸州に110を超える舎利塔の建立

隋の初代皇帝は仏教を大切にしてくれたんだね!
それは長く続いたの?

うん、一般的には暴君として知られる二代目の皇帝煬帝も熱心な仏教信者で、仏教は厚く保護されてね。
仏教界は大いに繁栄したんだ。

中国仏教の黄金時代だゾウ!
どんなお坊さんが活躍したの?

隋の時代は何といっても「隋三大法師」の活躍だね。

「隋三大法師」!!
何だかとってもいい響き☆

確かに恰好いいね(笑)
次の3人が挙げられるよ。
<隋三大法師>
①(浄影寺の)慧遠(522-592)
地論学派の南道派(※第25話参照)の最大の論師。
『十地経論』『維摩経』の注釈、『無量寿経』や『観無量寿経』などの浄土経典の注釈書も書き残す。
代表的著作『大乗義章』は辞書的な仏教総論書であり教理史を語る上でも重要な書物。
②(天台大師)智顗(538-597)
天台宗の開祖。
釈尊の教えを体系化し、法華経を最高のお経とする教相判釈「五時八教判」を確立。
③(嘉祥大師)吉蔵(549-623)
三論学派を三論宗として大成。
中観思想(空思想)の純度を高めた。

一人目の慧遠さまは前にも名前が出てこなかった?

それは東晋・五胡十六国時代に活躍した慧遠で別の人物。念仏結社「白蓮社」を創始した方だね。
区別化するため、そちらを(廬山の)慧遠、隋の時代に活躍した方を(浄影寺の)慧遠と表記されることが多いよ。
ちなみにその代表的著作も名前が似ていて(廬山の)慧遠は『大乗大義章』、(浄影寺の)慧遠は『大乗義章』を残しているんだ。混同しないようにね。

名前だけでなく著作まで名前が似ているなんて。。。
頭がこんがらがるゾウ。。

本当にね。
(浄影寺の)慧遠は、隋の文帝に重用された方でね。洛州の沙門都(僧侶を統括する官職)を勤め、長安の浄影寺に迎え入れられたんだ。
地論学派の、南道派(※第25話参照)の中心的人物でもあるね。

ええっと地論学派は『十地経論』を研究するグループだったね。
それを翻訳した菩提流支(ぼだいるし)と勒那摩提(ろくなまだい)の間で意見が割れて北道派と南道派に分かれて、、、
(浄影寺の)慧遠はその南道派に所属したんだね。

うん、当時北道派に比べ、南道派は圧倒的な隆盛を誇っていたとようでね。
そのため南道派は(浄影寺の)慧遠を中心に多くの著作が残っているんだ。

すごいお坊さんだったんだね!

うん、学派から宗派へと移り変わるこの時代、(浄影寺の)慧遠は学派時代を象徴する最後の学匠と言える人だね。
『十地経論』や『維摩経』の注釈の他、『無量寿経』や『観無量寿経』など、浄土経典の注釈書も書き残していてね。
中国浄土教の歴史を語る上でも名前が挙がる人物なんだ。
他にも慧遠の著作『大乗義章』は南北朝時代の仏教学の成果を集大成した辞書的な仏教総論書であり、教理史の上でも重要視されているんだ。

現代の仏教研究においても重要な人なんだね!
他に隋の三大法師として智顗さまや吉蔵さまがいるけど。

(浄影寺の)慧遠を「学派」時代の最後の巨匠とするならば、(天台大師)智顗と(嘉祥大師)吉蔵は「宗派」成立の立役者と言えるお坊さんでね。
(天台大師)智顗は「天台宗」の開祖だし、(嘉祥大師)吉蔵は「三論学派」を「三論宗」として大成させた人物なんだ。
だからこの二人に関しては、次回の「宗派」説明に合わせてお話ししていくね。

なるほど。
同じ時代の三大法師でも、「学派」寄りの慧遠さまと、「宗派」寄りの智顗さま・吉蔵さまがいるのか。
「隋」と言う時代はまさに「学派」から「宗派」への切り替わりの時期なんだね。
了解だゾウ!
唐時代(618-907年)

(※白地図部分は現在の国境線)

次は唐時代の仏教。
約300年続いた唐王朝は中国歴史上の黄金期だね。
この時代も仏教は厚遇され、領土の拡大と文化交流の促進も相まって、経典翻訳も国家事業として大いに進展したんだ。
その唐時代を代表する翻訳僧が玄奘三蔵というわけだね。

出たゾウ!
三蔵法師玄奘さま!
西遊記にも出てくるし、中国で一番有名なお坊さんって気がするゾウ。

うん、実際中国仏教史のみでなく、アジア思想史全体にとっても超重要な人物だね。
玄奘三蔵(602-664年)
●玄奘(602-664年)の功績
・命がけの求法の旅
629年、出国禁止の令を破り単身インドへ求法の旅に。約17年間の旅。持ち帰った仏典は657部に及ぶ。その旅の様子を残したものが『大唐西域記』。
・国家事業としての正確な訳経
唐の皇帝 太宗の勅命により仏教翻訳機関である翻経院の設立。
種々の唯識系の論書、アビダルマ論書、大乗経典を翻訳。
75部1338巻の膨大な翻訳(鳩摩羅什は35部294巻)。
それまでにない正確な翻訳。
・法相宗の事実上の祖
唯識思想を説く宗派。
詳細は次回の「宗派」説明にて。
命がけの求法の旅

玄奘の代表的著作と言えば、その旅の記録である『大唐西域記』。
西遊記のモデルともなった書物だね。
仏教史、中央アジア史、インド史、どれにとっても非常に重要な文献なんだ。
次のような道のりだったと言われているよ。
※黄色の線が往路、緑色の点線が復路

(※白地図部分は現在の国境線)

命がけの旅だよね。
スゴイ距離だゾウ。。。

そもそも出国自体が大変だったんだ。
長安を出発した当時(627年 or 629年)、成立間もなかった唐は情勢も不安定で国外への出国を禁止していて、国禁を犯した単身の旅だったそうだね。

国の決まりを破って黙って出てきちゃったの?
ワイルドだゾウ!
とっても有名なお坊さんだし、皆に見送られての出発だと思っていたゾウ。。
何がそこまで玄奘さまを駆り立てたの?

玄奘のインド旅の原動力は「仏教の本場で学びたい」「原典を持ち帰りたい」という強い意志からくるものだね。
玄奘は中国での修学時代、『涅槃経』や『摂大乗論』、『倶舎論』や『成実論』など、当時の中国最先端の仏教を学んでいたんだ。
特に『摂大乗論』などの唯識系の論書に対する関心が強かったんだけど、当時の唯識研究は地論学派や摂論学派などの様々な見解が混在していてね(※第25話参照)。
これはインド現地に行って、本当のところを学ぶしかないと決意したわけなんだ。

なるほど。。
その思いが爆発しての秘密の出国なんだね。
でもそんな出発で大丈夫だったの?
準備もあまり出来なかったんじゃ。。

うん、実際タクラマカン砂漠超えも難航してね。
道中水を全て落とすなどのトラブルもありつつも、命からがら砂漠北部のトルファン(高昌国)に到着。
ここで玄奘の学識に敬服したトルファン王から、旅行費用や護衛の人・牛・馬、次の国への親書などの援助を受けることが出来たんだ。

砂漠で水を落とす。。。
ゾッとするゾウ。
助けてくれる人がいて良かったゾウ。

本当にそうだね。
でも旅はまだまだ始まったばかり。
その後はクチャ(亀茲国)で雪解けを待ってから、標高4283メートルの氷山「ペテル峠」に入ったんだ。

4283メートル。。。
富士山よりも高いじゃないか。。。

うん、実際すごい難所で、多くの凍死者を出したみたいだけど、何とか超えることが出来てね。
その後は西域諸国を抜け、現ウズベキスタンのサマルカンドに。いわゆる「シルクロード」を通り各地の仏跡を巡っていったんだ。
そこから現タジキスタン、アフガニスタン、パキスタンのガンダーラ地方を越え、カシュミール国へと至ったわけだね。
カシュミールは当時の西北インドで最も仏教が栄えていた国でね。
ここで2年あまり滞在し『倶舎論』や『順正理論』のアビダルマ論書を学んだんだ。

各地の仏跡を巡りながらも、仏教を学んでいったんだね。
あぁ、「ガンダーラ」の曲が脳内に流れてくるゾウ。。

愛の~国 ガンダーラ♪

分かるよ。。
ゴダイゴの曲が本当にしっくりくるんだよね。
玄奘はその後南下して、マトゥラーやクシナガラ、サールナートなどの仏跡を参拝した後、当時の仏教研究の最高峰であるナーランダー寺に入ったんだ。
長安からここに至るまで3~4年の月日が経っていたと考えられるよ。

何年もかけて、ようやく目的の場所に着いたわけだね。
目的の唯識思想は学べたの?

うん、ナーランダー寺院でシーラバドラ(戒賢)という師匠について、念願の瑜伽唯識をはじめとする大乗・小乗の諸経論を、5年ほどかけて学んでね。
その後も数年間はインド各地の仏跡を回り、インドの仏教事情についての見聞を深めたんだ。

ついに、学びたかったことが学べたんだね。
でも、今度はそれを持ち帰らないと。。。

そうだね。
10年以上のインド滞在を経て、玄奘は唐への帰国を決意したんだ。
西域への求法僧としては東晋・五胡十六国時代の法顕(※第23話参照)も有名だけど、帰路にセイロン島からの海路を使った法顕とも異なり、玄奘は帰路も陸路ルートだからね。本当に大変な旅だったと思うよ。

原典を持ち帰ることも目的だったよね。
すごい荷物だったんじゃ??

うん、持ち帰った仏典は657部と膨大な量だね。
ただ帰り道は、当時の北インドの支配した戒日王(シーラーディティヤ)から、馬・象・人足などの支援を受けての旅でね。
カシュガル、ホータン、敦煌という、行きとは異なるルートでタクラマカン砂漠を越え、無事、荷と共に帰国することが出来たんだ。

スタート時は秘密の一人旅。
帰りは他国の王さまに援助されての大所帯。
玄奘さまの人徳が伺えるゾウ!
あれ、、、でも玄奘さまは国の決まりを破って出国していたんだよね。
帰っても大丈夫なの。。。


大丈夫。
唐を出て17年ぶりの帰国。
皇帝も代わっていたし、むしろ大歓迎だったみたいだよ。

ふー、怒られなくて良かったゾウ。。
でもここからも大変だよね。
持ち帰った膨大なお経を漢文に訳さないといけないゾウ。
国家事業としての正確な訳経

うん、帰国後すぐに当時の唐の皇帝 太宗の勅命もあり、長安の大慈恩寺に「国立」の仏教翻訳機関である翻経院が設置されたんだ。
玄奘がもたらした経典や論書の漢訳が国家事業として進められたわけだね。

国を挙げての協力があったんだね!
沢山のお経が訳されたんだよね?

うん、ここから20年におよぶ翻訳活動で、75部1338巻の膨大な経典を翻訳したんだ。
これは同じ中国四大訳経僧であり二大訳聖とも並び称される、東晋・五胡十六国時代の鳩摩羅什(35部294巻)と比べても、すごい数だよね(※第23話参照)。
<玄奘の訳した主な仏典>
『瑜伽師地論』、『摂大乗論』、『摂大乗論釈』、『唯識二十論』、『成唯識論』などの唯識系論書(※それまで唯識系論書翻訳の第一人者であった真諦のものも含め全て翻訳しなおされた)。
世親『倶舎論』、衆賢『順正理論』、『発智論』、『大毘婆沙論』などのアビダルマ論書。
『大般若波羅蜜多経』『般若心経』『維摩経』『解深密経』『阿弥陀経』などの大乗経典。

本当にすごい量!
ところで鳩摩羅什さまもすごい方だけど、二人の翻訳にはどんなちがいがあったの?

いい質問だね。
玄奘の翻訳は原典に忠実な正確性を求めるところに特徴があってね。非常に「直訳」的というか。
鳩摩羅什に代表される従来の翻訳は、訳者の意図が入った「意訳」であると批判したんだ。
自分以前の翻訳を旧訳、自らの翻訳を新訳としてはっきり比較したんだね。
実際その訳語は、サンスクリット語仏典の直訳とされるチベット語訳ともよく一致していて、その正確性が伺えるんだ。
<中国訳出時代の区分法>
①古訳時代
仏教伝来~鳩摩羅什出現(350~409)以前。漢代~三国時代~西晋時代。
②旧訳時代
鳩摩羅什出現後~玄奘(602-664)出現前。東晋五胡十六国時代~南北朝時代~隋時代。
③新訳時代
玄奘出現後。唐時代~。

それは、玄奘さまの方が翻訳者として優れていたってこと?
原文に正確な方がいいよね?

一概にはそういえなくてね。
どちらが上というより、翻訳スタイルの違いなんだ。
<両者の翻訳スタイルの違い>
○鳩摩羅什 ~伝わる仏教~
意訳の傾向。漢人の感性に沿った流麗な翻訳。
意味が通ることを優先。
【メリット】
読みやすく、直感的に教えが伝わる。
【デメリット】
インド原典との差異がでることも。
○玄奘 ~正確な仏教~
直訳・厳密訳。原文の再現性を重視した翻訳。
省略したり付け加えたりしない。
【メリット】
正確な翻訳を知ることが出来る。研究向き。
【デメリット】
とにかく難解。

鳩摩羅什の翻訳はとにかく分かりやすく、外来の仏教が中国の人々に広く普及するための大きな役割を果たしたんだ。
その流麗で心地よい文体は中国や日本の信仰の場で使われることが多くてね。例えば日本で読まれる『法華経』や『阿弥陀経』『般若心経』は鳩摩羅什訳のものとなるんだ。
『中論』などの翻訳を通して「空」という大乗の中心哲学を中国に根付かせたのも大きな功績となるね。

一方、玄奘の翻訳は、原文の再現性を重視した正確な直訳であり、「より教えを正確に知りたい」「曖昧な部分を無くしたい」という人には最適の文体なんだ。
玄奘の翻訳により、中国仏教の学問としての完成度は各段にレベルアップしたわけだね。
その精緻な翻訳により、論理的な説明が要求される唯識の理論体系を中国に確立させたというのも大きな功績だね。
唯識思想を中心に置く法相宗の事実上の開祖でもあるよ(詳細は次回に)。

なるほど。
鳩摩羅什さま翻訳の分かりやすくて心地よいお経があったから多くの人に仏教は広まって、玄奘さまの翻訳があったから仏教思想の深いところを詳細に知ることが出来たんだね。

そう。どちらが優れているという話ではなく、中国仏教に鳩摩羅什は「広がり」を、玄奘は「深み」をもたらしたんだ。
アプローチは違えど、両者ともに中国仏教の確立に多大な貢献をした偉人だね。

唐の時代には、他にもお経を伝えたり訳したお坊さんはいるの?

うん。玄奘の後、インド密教の発展も反映して多数の密教経典がインドの翻訳僧により中国に伝わったんだ。
次の方たちだね。
密教経典の伝来
<密教経典を伝えた渡来僧>
●善無畏(ぜんむい 原名 シュバカラシンハ)
生没年636~735年。インド出身の翻訳僧。716年長安に来朝。唐の第9代皇帝玄宗に国司として迎えられる。
『大日経』『蘇悉地経』などの密教大乗経典を翻訳。弟子の一行(683-727)によりその『大日経』に注釈が施された。
●金剛智(こんごうち 原名 ヴァジラボーディ)
生没年671-741年。インド出身の翻訳僧。唐の第9代皇帝玄宗の庇護のもと、『金剛頂経』系統の密教を翻訳し伝えた。
四大訳経僧 不空の師匠。
●不空(ふくう 原名 アモーガヴァジラ)
生没年705-774年。インド出身の翻訳僧。四大訳経僧の最後の一人(他に五胡十六国時代の鳩摩羅什、陳代の真諦、唐代の玄奘がいる)。
720年唐に至り、師である金剛智を助け訳経に従事。金剛智の没後、729年インドに帰り『金剛頂経』をはじめとする多数の密教経典を携え、746年再び中国に戻り、以後亡くなるまで翻訳と布教に従事。110部143巻の経典を訳す。
鎮護国家の修法を通じて唐の朝廷に絶大な帰依を受ける。

うん、深遠な境地に到達したものしか伺い得ない「秘密の教え」だね。
仏教史学的には7世紀以降に成立したと考えられている、インド仏教の最後の発展形なんだ。
インドに古来よりある神々に対する儀礼や供養法などの土着の信仰(バラモン教やヒンドゥー教)を取り入れ、仏教的に昇華したものだね。

お経を訳してくれたのは、善無畏(ぜんむい)さまに金剛智(こんごうち)さまに不空(ふくう)さま。
皆インドのお坊さまなんだね。

うん、『大日経』『蘇悉地経』『金剛頂経』といった密教の中心となる大乗経典を訳してくださったんだ。
特に不空は多数の密教経典を訳し、玄奘以後の大翻訳家として、四大訳経僧の最後の一人に数えられたんだよ。
そして、この不空の弟子の恵果(746-805)のもとに留学し教えを伝授されたのが、真言宗の開祖空海だね。

そこで日本の真言宗に繋がるんだね。
感慨深いゾウ。。。
日本に伝わったのは分かったけど、中国では密教はどうなったの?

それが、ほどなくして行われた唐末の廃仏政策(会昌の法難)により仏教界全体が大きな打撃を受けてね。
仏教全体の衰退傾向と共に、密教も衰亡していったんだ。
会昌の廃仏

そんな!また廃仏政策!!
せっかく中国仏教が安定してきたのに、この時代でも沢山のお寺やお経が燃やされてしまったんだね。。。
でも何でだゾウ?
唐の時代、仏教は大切にされていたんだよね?

確かに国に保護下にあった。
特に唐中期頃からは行政が出家者の籍を管理し、その身分も保証されていたようだね。
そうした全面的なバックアップにより唐代仏教は大いに発展したのだけど、逆を言えば出家者は国家の支配下にあったということ。
そうした体制は国の方針変更のあおりをもろに受けてしまうという側面があるんだ。
その負の側面の最たるものが廃仏政策だね。
特に唐代の法難は、中国仏教史上で有名な四つの法難(三武一宗の法難)の中でも、最も大きなものでね。
これを「会昌の廃仏」と言うんだ。
<三武一宗の法難>
北魏の太武帝(在位424-452)、北周の武帝(在位560-578)、唐の武宗(在位841-846)、後周の世宗(在位954-959)といった4人の皇帝による仏教弾圧。各皇帝の名から一字を取り「三武一宗の法難」という。
<会昌の廃仏>
「三武一宗の法難」の中でも最も大きな廃仏政策。会昌は年号。
会昌5年(845年)、唐の皇帝 武宗(在位841-846年)により行われた唐全土を巻き込む大法難。
26万人余りの僧侶の還俗、政府公認の寺院4,600ヵ所余り、非公認の小寺院40,000ヵ所余りが廃止された。

ぞぞぞぅ。。。そんなに被害が。
恐ろしいゾウ。
唐の皇帝はなぜそんなことをしたの?

うん、一つは皇帝武宗が道教を傾倒していたということ。
趙帰真(ちょうきしん)という道士に「このままでは皇帝に代わり僧侶が国を治めますよ」と唆されたという記録もあり、邪魔な仏教を排除しようとしたんだ。
二つに、「軍役逃れ」「税制優遇」「戒律を破り堕落する」等、そういった国益に沿わない僧侶を粛清するといった側面もあったみたいだね。

理由はあったのかもしれないけど、ちょっとやり過ぎだゾウ。。。
中国に仏教は無くなっちゃったの?

それが会昌6年(846年)、つまり会昌の廃仏が実施された翌年に皇帝武宗は急死してね。
次の皇帝 宣宗により仏教の復興がなされるんだ。
ただ、南北朝時代にあった廃仏政策(※第24話参照)の時もそうだけど、この唐時代の会昌の廃仏で、中国の仏教は方向転換を余儀なくされてね。
豊かな経済基盤に依存する傾向にあった学問的な仏教は衰退し、これに代わって自給自足的な生活を営み、実践を重んじる禅宗が流行していくんだ。

仏教の方向性が変わる。。
それだけショッキングな事件だったんだね。

よし、今回はここまで。
次回は、隋~唐代に発生した中国仏教の確立を象徴する「宗派」について、一緒に考えてみよう。

ついに「宗派」のお話しだね!
ラジャーだゾウ!!
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