【前話のまとめ】
○前回のテーマ
「大乗のお経と思想を知りたいゾウ(中期~後期大乗編)」
・様々な大乗経典登場。
『如来蔵系経典』『解深密経』『大日経』『金剛頂経』等
・仏性・如来蔵や唯識思想、密教思想の展開。
・1200年頃、インド仏教衰退。
⇒どのようにして、中国や日本にお経が伝わったのか←今回はここじゃゾウ。
第十八話「北伝仏教と南伝仏教ってなんだゾウ?)」
注目ワード 「インド仏教」「南伝仏教」「アショーカ王」「マヒンダ」「北伝仏教」
インドの仏教は西暦1200年頃に滅んでしまったんだよね??
それじゃあ仏教はどうやって中国や日本に伝わったの?
インドの地方宗教であった仏教が、どうやって世界へ広がったのかということだね。
インドから周辺地域への仏教の伝わり方を考える場合、大きく分けて北伝(ほくでん)と南伝(なんでん)の伝搬経路が考えられるんだ。
北伝(ほくでん)と南伝(なんでん)?
北と南から伝わったってこと??
↓南伝仏教について
そうだよ。
まずは、南側からの伝わり方。南伝仏教についてだね。
これには、アショーカ王(漢訳では阿育王)治世の時代(紀元前268~232頃在位)における、仏教統治が大きく関わっているんだ。
アショーカ王??
インドの王様かな???
うん、古代インドのマウリヤ朝の時代(紀元前322年頃~紀元前185年頃)、その三代目となった王様の名前でね。
この王様の治世下で、インドは初めて統一国家となったんだ。
アショーカ王の特筆すべき点は、仏教の法に基づく統治を掲げたこと。「法」による政治だね。
その軌跡の一例として、お釈迦さま入滅直後建てられたストゥーパ(仏塔)から、お釈迦さまの遺骨を取り出して分け、新たに8万4000もの仏塔を建てたと伝えられるんだ。
この数字自体は誇張もあるかもしれないけど、実際にアショーカ王の時代に起源を持つものが、多数発見されているんだよ。
インド中に仏教を広めた王さまなんだね!
そうだよ。
そしてもう一つ注目すべき点は、国内のみではなく、近隣諸国にまで仏教の精神を伝える使者を派遣していたことだね。
近隣諸国というと???
シリア、エジプト、マケドニアなど、色々挙げられるけどね。
特に、アショーカ王の息子とされるマヒンダが、スリランカ(セイロン)に派遣されたことは、とても大きな意味を持つんだ。
その後、スリランカで発展し、東南アジア諸国に広がった仏教のことを「南伝仏教」と言ってね。
上座部系の仏教が伝わったんだよ。
上座部というと、小乗仏教だけが伝わったってこと??
僧団が保持してきた「経(五ニカーヤ経典)」「律」「論」の「三蔵」が、伝わったという意味ではそうなんだけど、「小乗仏教」と言うのは「大乗仏教」側から見た一種の貶称(おとしめた呼び方)だから、それ単体ではあまり使わない方がいいかもしれないね。
そもそもスリランカに渡った仏教は、大乗仏教側から閉鎖的(自利のみを求めている)だと批判される以前のものの可能性も十分にあるし。(※アショーカ王在世時、分裂がどの程度進んでいたのかに関しては諸説ある)
そのまま「上座部仏教」と呼ぶか、「尊敬すべき先達(長老)たちを経て伝承されている仏教」という意味合いで、「長老説仏教(テーラヴァーダ仏教)」と呼ぶのがいいんじゃないかな。
なるほど。。。確かにそうだね。
注意するゾウ!
それでスリランカに伝わった上座部仏教は、その後どうなったの??
スリランカは、インド仏教崩壊の原因となったイスラム侵攻にもあわず、仏教を維持できてね。
その後、ビルマ(ミャンマー)、タイ、カンボジアへと広がっていったんだ。
現在も仏教を主とする国々だね。
こうした、東南アジアを中心とした「上座部仏教/長老説仏教」の広がりを、南伝仏教というわけだね。
なるほど。
それがインド南方からの仏教の広がりなんだね。
じゃあ、北側からはどう伝わったの?
↓北伝仏教について
「北伝仏教」に関しては、その伝搬ルートは、大きく分けて、「中国に伝わったルート」と、「チベットに伝わったルート」があるんだ。
まずは中国へのルートからお話しするね。
スリランカへの南伝をアショーカ王在位の時代(紀元前268~232頃)から換算して紀元前3世紀中頃のこととすると、中国への北伝は少し遅れてシルクロード(中央アジア横断の東西交通路)が開かれた、紀元前2世紀頃から始まったと言われていてね。
西北インドからアフガニスタン、パキスタン地方に伝わっていた仏教が、シルクロードの隊商とともに、次第に中国へと伝搬していったんだ。
すごい距離だよね!
お経を中国の言葉に翻訳して届けるために、沢山のお坊さんが旅をしたんでしょ??
海路が用いられることもあったみたいだけど、主な伝搬経路はこの陸路だったみたいだね。
西遊記で有名な三蔵法師玄奘は、往復ともに陸路だったらしいし。
大変なご苦労だったと思うよ。
何世紀も続く多くの訳経僧の活躍もあり、中国には、部派僧団が保持していた「経(四阿含経典)」「律」「論」の『三蔵』や、その時代興隆していた『大乗経典』など、多くの経典が伝わってね。
特に大乗経典が重要視されるようになったんだ。そしてそれが日本にも伝えられたわけだね。
「小乗」とされるものも「大乗」とされるものも、その殆どのお経が中国に渡ったんだね!
じゃあ、チベットにはどう伝わったの??
チベットには、7世紀、ソンツェン・ガムポという王様の時代に、正式に受け入れられてね。
8世紀後半には国教化し、それに伴い国家事業として、急速にチベット語への翻訳作業が進められたんだ。
国家事業って、なんだかスゴそうだぞう!??
サンスクリット語で説かれたインド仏典の正確な翻訳を目的に、自国語であるチベット語の文法を整備・確立したみたいだからね。
そういう意味では、漢訳よりも翻訳の信頼性が高いかもしれない。
国を挙げての大事業だね。
翻訳のために自国語を作り直すってスゴイね。。。
本気の本気だゾウ!
チベットではどんな風に仏教は受け入れられたの??
チベットに仏教が本格的に伝わりだした時代(7、8世紀~)は、インドで密教が主流となった時代だったからね。
その影響を受けて、チベット仏教は密教を基本としているんだ。
密教ということは、チベットも大乗仏教を重視したんだね。
うん、そうだね。
ただチベット仏教は、密教一辺倒ではなく、部派仏教に伝わる厳格な律や、大乗仏教の諸哲学(特に龍樹の中観思想)など、いわゆる顕教(密教以前の教え)も重要視していてね。
顕教と密教の両輪で教えが維持されているんだ。
中期密教を伝えた中国・日本と異なり、後期密教の教えを受け入れたことも含め(※第17話参照)、独自の展開を遂げた国だね。
このチベット仏教は、モンゴルにも伝搬したんだよ。
なるほど。。。
そうやって、インドの仏教は東南アジア、中国、日本、チベット、モンゴルなど、色んな国々に広がっていったんだね。
そういえば、お経は中国に渡って漢訳されたし、チベットに渡ってチベット語に訳されたけど、お経はこの二種類しかないの?
インドの言葉で説かれたお経は残っていないのかな???
その点については次回お話ししようね。
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<よければこちらも!補足コーナー>
インドの仏教史を学ぶ上で混乱する原因の一つに、基盤と成るお釈迦さまの生存年代や僧団の分裂時期、その後の各部派の動きがはっきりしない点があります。
文書ではなく口頭で伝承するという、古代インドの文化性にも原因があるのかと思うのですが、数少ない情報である、北伝仏教と南伝仏教の伝承に違いが見られることも、そこに拍車をかけています。
以下に、北伝と南伝の伝承内容の差異を一部挙げてみました。参考までに。
↓赤が北伝、青が南伝です。
「お釈迦さま生存年代について」
北伝と南伝でなんと100年の開きが!
現在の日本の主流の説は、北伝の伝承によるもので、本コーナー中でもそちらの説を採用しています。ただ、厳密に確定は出来ないので、おおよそ紀元前6世紀~紀元前5世紀の方と考えていただければと思います。
〇紀元前463~紀元前383年
北伝資料より。
「アショーカ王の即位(紀元前268年)は、仏滅後116年経た後であった」という伝承に基づき、遡って想定したもの。
紀元前565~紀元前485年
南伝資料(『島史』『大史』)より。
「アショーカ王の即位(紀元前268年)は、仏滅後218年経た後であった」という伝承に基づき、遡って想定したもの。
「根本分裂の原因について」
お釈迦さま入滅後100年経った頃に起きた、見解の相違による僧団の分裂。その理由が、北伝と南伝で異なります。日本では南伝の説が有力だと思いますので、本コーナー中でもそちらを採用しています。
大天の五事
北伝資料(『異部宗輪論』)より。
阿羅漢(悟った者)をどう定義するかの五項目で意見が割れたとする説。
〇十事の争論
南伝資料より。
主に財産等の所持に関する戒律(十種)に関して、緩めるか保持するかで意見が割れたとする説。
「部派の数について」
根本分裂後、最終的にいくつの部派に分かれたかについて、北伝と南伝で伝承が異なります。どちらが有力とも言えませんが、本コーナー中では北伝の説を採用しています。
〇計二十の部派に分裂(大衆部系九部、上座部系十一部)
北伝資料(『異部宗輪論』)より。
計十八の部派に分裂(大衆部系六部、上座部系十二部)
南伝資料(『島史』『大史』)より。