前話のまとめ
○前回のテーマ


第十七話「お釈迦さま入滅後、仏教はどうなったんだゾウ?(大乗の経典と思想の展開編②)」
注目ワードインド仏教」「大乗経典」「仏身論」「二身説」「三身説仏性如来蔵天親」「瑜伽行唯識」「密教

きくぞう君

前回は、お釈迦さまがいなくなった後、「法」そのものに関心が集まったって話で終わったよね。
そして、それは「大乗経典」の思想にも深く関わっているんだと。
どういうことだゾウ???

住職さん

うん、前回も少し話したけど、お釈迦さまがいた時代はお釈迦さまに聞けば良かったんだ。
何よりの見本がそこにあったわけだからね。
でもお釈迦さまがいなくなった後は、そうはいかない。
のこされた者たちにとってお釈迦さまの入滅は、「仏」という存在をあらためて考える契機となったんだね。

お釈迦さまをお釈迦さま足らしめたもの、仏を仏足らしめたものとは何なのか?
そこで導かれた答えが「法」なんだ。

直接、お釈迦さまに聞けないからこそ、皆必死に「仏って何なんだろう」と考えたんだね。
でも、「法」という真理がまずあって、それを大切にしなさいというのは、お釈迦さまも最初から言ってたんじゃないの?

うん。以前もそのことはお話ししたよね(第四話、第五話参照)。
量り知れない過去から未来へと流れる「法」という理(ことわり)。
それに目覚めた者が仏であり、お釈迦さま。
より根元的なものは「仏」ではなく「法」であるということは、確かに当初から説かれていたことではあるんだ。
その考えがお釈迦さまのいなくなった後、より顕著となり深まったということだね。

「大乗非仏説論」(※第15話参照)に対する「法」が説かれているのだから「大乗経典」は正当な経典である、といった大乗仏教側の姿勢も、そういった背景が関係しているのかもしれないね。

ええっと、つまり。。。
「お釈迦さま自身が実際に説いた」という事実より、「法が説かれていること」の方が、お経として大切にされるべきという主張だね。

そうだね。
そしてその「法」への関心は、「仏の本質とは何なのか」「仏の身体とは何なのか」という「仏身論」へと展開していく。
「仏」の本質とは「法」であり、仏」とは「法」が私たちに合わせ、姿・形を取ったものだというね。

「法」「仏」の姿に成るの????

うん、不思議だよね。
真理そのものである「法」は、煩悩により眼を遮られている私たちには本来程遠いもの。
色も形もないものだと言われるんだ。
だから、現実の私の元に「法」が至り届くためには、それを媒介するものがいる。
それが「仏」さまだと言うわけだね。

前回、『法華経』「久遠実成の釈迦牟尼仏」、つまり「遙か過去世からお釈迦さまは仏であった」と説かれていることについて触れたけどね。
これはつまり、「法」が私たちに合わせ、過去に幾度も「仏」として現れ、2500年程前のインドでは「お釈迦さま」として出現したという教えなんだ。

また、『浄土経典』等に説かれる様々な仏の存在。「多仏思想」と言うんだけどね。これも「法」が人々の素養に応じて、様々な仏の姿を取って現れ出たということだね。

仏教では、これを「二身説(にしんせつ)」と言ったり「三身説(さんしんせつ)」と言うんだ。

仏身論
二身説
法身(ほっしん)
仏の本性である「法」そのものの身体。色・形はない。
色身(しきしん)
色・形ある生身の仏。「お釈迦さま」。
三身説※二身説に報身が加わったもの。
法身(ほっしん)
色身(しきしん)
・報身(ほうじん)
菩薩であった時、立てた願いと行の報いによって顕れ出た仏。例「阿弥陀さま」。

●「法」から程遠い「私」
「法」←(遙か遠い)ー「私」
●そんな「私」のために「法」が接しやすい姿を取り近づいてくる
「法」→お釈迦さま(色身)や阿弥陀さま等の仏さま(報身)→私

「法の身体」「法身」か!!!
色・形のない「法」が、ボク達に合わせて、色・形のある姿で出てきてくれたんだね。

うん、「法」をとても身近に感じられる教えだよね。
二身説『般若経』三身説瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)という大乗仏教の学派から、展開・確立したと考えられていてね。
初期から説かれていた「法」が根元であるという思想が、お釈迦さまの入滅をきっかけに、大乗仏教の時代、時間的(久遠実成)にも空間的(多仏思想)にもダイナミックに展開したんだ。

阿弥陀さまがご本尊の浄土真宗にとっても、すごく大切な考え方だね!

そうだね。
大乗仏教というと、まず「空」のことが言われるんだけど、それに勝るとも劣らない大切な思想だと思うよ。

では、続けて中期のものと考えられる大乗経典(3世紀~6世紀頃)についても触れるよ。

この時代の大乗経典の特徴としては「仏性(ぶっしょう)」や「如来蔵(にょらいぞう)」「唯識(ゆいしき)」といった思想が見られることでね。
文学的な表現に富んだものも多い初期大乗経典と比べて、理論的・哲学的な傾向が強い経典が多いかもしれない。

「ぶっしょう」
「にょらいぞう」??
「ゆいしき」???
いっぱい新しい言葉が。。。

うん、一つずつお話しようね。
まず「仏性」「如来蔵」
「仏性」というのは「仏の本性」、「如来蔵」は「如来を内蔵している」ということ。
どちらも、全ての生きとし生ける者は清らかな仏の本性、つまり法身をその身に宿しており、仏に成る可能性を具えているという教えだね。

仏性
全ての衆生は仏の本性を具えている
如来蔵
全ての衆生は如来を内蔵している
※これらは塵の様にこびりつく煩悩(客塵煩悩)によって覆われており、それを行によって払うことで清らかな仏の本性が顕れ、悟りを得ると説かれる。

ボク達の中に、清らかな仏さまがいるの!?

それは、立場や宗派によって色んな受け取り方があると思うんだ。
ただ、「全ての者が仏に成る可能性を有する」という考え方は、大乗仏教全てに通じる、大切な思想だね。

ボクでも仏さまに成れるってことだね!!!
どんなお経に説かれているの?

代表的な『如来蔵経典』は、『如来蔵経』『不増不減経』『勝鬘経』などがあってね。
『勝鬘経』は、男性が主人公のものが殆どである経典の中で、勝鬘(シュリーマーラー)という女性が主人公の点でも注目されるお経だね。

他にも有名なものとしては『涅槃経(ねはんきょう)』も、如来蔵を説く経典に分類されるんだ。

『涅槃経』。。。
確か「涅槃(ねはん)」って、煩悩から離れることだったよね??(※第三話参照)

そう。「煩悩を吹き消すこと」を意味する「ニルヴァーナ」からきた言葉だったね。
『涅槃経』は正式名称を『大般涅槃経(だいはつねはんきょう)』、原題を『マハーパリニルヴァーナ・スートラ』と言ってね。
意味は「完全に煩悩を吹き消した者の経」。
お釈迦さまの「入滅」をテーマにしたお経なんだ。

「入滅」ということは、お釈迦さまが亡くなった時のことが説かれているの?

そうだね。
ただ少しややこしいんだけど、『涅槃経』は二種類あって、①部派仏教に伝承される阿含経典のものと、②大乗経典のものがあるんだ。
どちらも、お釈迦さま入滅時のことを話してはいるんだけど、大乗経典版は加えて「如来常住(にょらいじょうじゅう)」と「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」が中心のテーマとなるんだ。

如来常住
如来(仏)は永遠に存在するということ。仏陀の身体は滅しても、法身としてこの世界に常に働きかけていると説かれる。
一切衆生悉有仏性

全ての生きとし生けるものは、仏の本性を具えている(如来蔵)

「仏身論」「如来蔵」の思想が一緒に説かれている、とっても大切なお経なんだね。

「唯識(ゆいしき)」も中期の大乗経典に説かれるって言っていたけど、どういう考え方なの???

唯識思想が説かれる代表的な大乗経典は、『解深密経(げじんみっきょう)』。「隠された意図を解き明かす経典」という意味のお経だね。
「唯識」の思想は、こうした経典をもとにアサンガ(漢名 無著、395-470年頃)ヴァスバンドゥ(漢名 世親、400-480年頃)の兄弟が、体系化・確立したと言われていてね。
特にヴァスバンドゥ(世親)は有名で、天親(てんじん)とも呼ばれるんだけど、きくぞう君聞いたことない??

あ!
もしかして正信偈(浄土真宗の聖典)に出てくる!?

「てんじんぼーさつぞーろんせーつ♪(天親菩薩造論説)」

そうそう。
七高僧(親鸞聖人が浄土真宗の祖師として敬った七人の高僧)の一人でもあるし、大乗仏教思想全体から見ても、龍樹菩薩と並ぶ偉大な思想家だね。

ヴァスバンドゥ(世親)らが確立・展開した「唯識」は原語を「ヴィジュニャプティ・マートラ」と言ってね。
直訳すると「ただ表象のみ」という意味なんだ。

んん?「表象のみ」ってどういうこと???

「表象」は簡単に言うと、「イメージ」みたいなものかな。
次のような主張なんだ。

唯識
私たちにとっての世界、そこに「有る」ととらえているもの全ては、個人個人の認識が生み出した、イメージ(表象)に過ぎない。

『解深密経(げじんみっきょう)』によると、当時「空」の思想は誤解して解釈されることもあったみたいでね。
それを是正し、正しい理解に導こうと説かれたのが「唯識」の思想なんだ。
「空」の思想は「不変の実体、本体の様なものは、なにものにも存在しない」ということを伝えてくれるんだけど、「唯識」の思想はそこからさらに踏み込んでね。次の様に言うんだ。

「不変の実体」がそこに「有る」と錯覚してしまう原因は何なのか?
→それは個人個人の認識(心)が生み出した表象(イメージ)によるもの
→「認識(心)」が根本的な原因であり、そこに瑜伽行(ゆがぎょう)によって働きかけることで悟りに至る

心が原因だから、それを調(ととの)えるために、修行するってこと???

そうだね。
「唯識」というのは「認識(心)」を問題視した、ただの学問ではなくてね。
行による解決法も提示した、より実践的な考え方なんだ。
だからそうした問題提起をした、彼らを瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派」と呼ぶんだ。

でも、心を問題視して、それを行で調えましょうというのは、お釈迦さまのいた時代から言われていたことじゃないの?
戒・定・慧の修行だってそうだよね(※第十話参照)?

確かにそうなんだけど、これらはそれをさらに強調し、分析を加えたものでね。
その問題の心のあり様、特に認識の部分を八つに分類したんだ。
「八識(はっしき)」と言うんだけどね。

「はっしき」???

うん。
従来、仏教は人の持つ認識、見たり聞いたり考えたりする心の働きを、次の六つに分類(六識)して考えていたんだけどね。

⓵眼識(視覚)、②耳識(聴覚)、③鼻識(嗅覚)、④舌識(味覚)、⑤身識(触覚)、⑥意識(思考)

現代でいう五感に、意識(思考)を加えたものだね。
「唯識学派」は、そこからさらに一段と深く心を分析して、潜在意識、無意識下に働く、次の二つの識を加えて説明したんだ。

⑦末那識(まなしき)、⑧阿頼耶識(あらやしき)

「無意識下」に働く識???
自分では、意識できないってことだよね。
どんな「識」なの???

まず八番目の識、「阿頼耶識(あらやしき)」についてだね。
「阿頼耶識」の原語「アーラヤ」とは、「蓄えるところ」を意味してね。
つまり「阿頼耶識(あらやしき)」は、前六識(⓵眼識②耳識③鼻識④舌識⑤身識⑥意識)の認識の結果をおさめ管理する、「貯蔵所」的な識なんだ。

認識の結果をおさめる貯蔵所??

うん、「唯識学派」が言うには、私たちが見たり聞いたり感じたりしたこと、過去の認識や経験は、一度その「阿頼耶識(あらやしき)」という潜在意識に蓄えられると言うんだ。あたかも衣服に香りが染み込むようにね。それを唯識の言葉で薫習(くんじゅう)と言うんだよ。
そして、染み込まれたそれは種子(しゅうじ)となり、阿頼耶識の中で影響し合って、新たに六識を通した外界の認識という形で芽吹くんだ。
そうして生じた認識も、また阿頼耶識の中に種子として薫習される。
この、六識による認識→阿頼耶識→六識による認識→阿頼耶識→(以下、繰り返し)の循環により、私たちは外界の存在を認識していると「唯識学派」は説明するんだ。

なんだか難しいけど、、、阿頼耶識は見たり聞いたり感じたことが種として植えられる畑みたいなものなんだね?
そしてその種は、新しく見たり聞いたりする行為のきっかけになるんだゾウ!

そう。そういった全ての認識を補完・管理する根本の識が「阿頼耶識」なんだ。

そして、第七番目の識である「末那識(まなしき)」
これは思惟、思考を意味する「マナス」からきた言葉だけど、「汚れた意識、染汚意」とも呼ばれているんだ。

「汚れた意識」ってなんだゾウ???

煩悩に関与する潜在意識でね。
この識が働いている時は、絶えず「変わらない私がある」「絶対の私がある」「私こそが正しい」などの、自己に執着する心が生まれると言われるんだ。

以上の、表層の識6種、潜在的な識2種が、「唯識学派」が提唱した「八識」だよ。

それが、唯識学派の人たちがお話しした心のありようなんだね。
それを調えるために「行」の話が出てくるんだよね???

そうだよ。
「八識」という認識作用が働いている時、通常人は存在しないものを存在すると誤認する。
「末那識」「阿頼耶識」などの潜在的、無意識的な識によりもたらされているものであり、気づくことが出来ない。
だから瑜伽行によって

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