もうすぐお彼岸だゾウ。。。
何をしたらいいんだろう(~_~;)
そうだ!住職さんに聞いてみるゾウ!
助けて~、住職さ~ん。
お彼岸について教えて~!
やあ、きくひと君。
あぁ、確かにもうすぐお彼岸の季節だね。
ご門徒さんの中にもこの日を大切にされている方が多いんだよね。
常髙寺でも4月と10月にご法座を開いているんだよ。
そうなんだね。。。
どうしよう。。お彼岸のこと何にも知らないゾウ(~_~;)
そもそもお彼岸って何のためにしているんだろう???
うんうん、ちょっと考えてみようか。
まず言葉の意味を説明するとね。
お彼岸はインドの「パーラミター(pāramitā)」という言葉が原語とされているんだけどね。
この言葉の解釈は諸説※あるんだけど、伝統的には「あちら側に(パーラム)到った状態(イター)」ということで、「到彼岸(とうひがん)」と漢訳されていてね。それが「お彼岸」という言葉の由来だと考えられているんだ。
※「パーラミター(pāramitā)」のザックリ解釈。
概ね次の二つの解釈があります。言語学的には1⃣の方が元々の意味だったと支持されていますが、日本に伝わる「彼岸」は2⃣の解釈からきたものと考えられています。
1⃣「最高の」や「最上の」を意味する「パラマ(parama)」から変化したとする解釈。この場合、「最高の状態」や「最上の状態」、「完成」や「成就」などを意味する。
2⃣「あちら側に」を意味する「パーラム(pāram)」と「到った」を意味する「イタ(ita)」の複合語の変化形。「到彼岸」と漢訳される。
「あちら側に行く」って意味なんだね?
でも「あちら」ってどこのこと??
うんうん。「あちら」があるということは「こちら」があるということだけどね。
これを「此岸(しがん)」といってね。
色々な煩悩や執着をもちながら、それが叶えられず苦しむ、私たちの世界、身の上のことを指すんだ。
「彼岸に到る」というのは、そういった苦しみのもとである煩悩・執着から離れた境地、つまり「仏に成る」ことを意味しているんだよ。
そうなんだ!
確か「仏(ほとけ)」ってインドの言葉で「仏陀(ブッダ)」、つまり「目覚めた者」って意味なんだよね??
(「きくぞう」に変身してた時、聞いたゾウ。。。 ※第二話参照)
うん、よく知ってるね!
そう「ブッダ」。つまり「仏教の真理に目覚める」ことにより、煩悩を離れた者が「ほとけ」なんだ。
だから必ずしも彼岸に到って「仏に成る」ということは、人が亡くなるという意味ではないんだよ。
ただ浄土真宗は自らの力で仏に成ることが難しい私たちが、死後阿弥陀さまの「お浄土」に導かれて、そこで「仏」に成らせていただく教えだからね。
そういった背景もあって、私たちはこの「彼岸」のことを「お浄土」と受け止めているんだ。
なるほど!
「彼岸に到る」っていうのは「仏に成る」ことだけど、浄土真宗にとっては「お浄土に往く」って意味にもなるんだね。
そうだね。
この「仏に成ること」「お浄土に往くこと」が、私たちにとってどういった意味合いを持つのか。
お彼岸はそのことを考えさせていただく、とても大切なご縁だと思うよ。
お浄土か。。。
お爺ちゃんもお浄土で元気にしているのかな~???
うんうん、この時期は亡くなられた方々に思いを寄せられる方も多いね。
日々のご法事もそうだけどお彼岸の様な仏事は、亡くなられた方々を偲ばせていただく、大切な機会であり場所だと思うんだ。
亡くなられた方はどういった方だったのか、生前どのような思い出を共に過ごしたのか、何を遺してくださったのか。
家族や親しかった人達皆で、共に偲ばせていただく大切なご縁なんだよ。
うん。確かにご法事になると普段は中々忙しくて会えない親戚の人たちも来るよね。
仏事は、親族みんなで亡くなった人のことを話せる、本当に大切な場所なんだね。
そうだね。
そしてさっきも言ったけど、お彼岸のご縁は「仏に成る」ということ、そのために「仏の教え」に出会うということを考える、とても大切な機会かなと思うんだ。
仏教の教えに「諸行無常」という教えがあるんだけどね。
「この世に生まれたものは、時間と共に様々な影響により変化し、その形は滅してなくなってしまう。」
これは私たち人間の命の営みにも当てはまることでね。
私たち人間は日々年を重ね、時には病気や事故、他にも色んな影響を受けて、どんな人でも必ず最終的には人として死という形を迎えるんだ。
うん、そうだね。。
それは確かに分かるんだけど。。。
それって当たり前のことじゃないの???
そう、当たり前のことだね。
ただこの一見当たり前のこと、そうは言っても自分にとって一番大切な命の問題。このことを見失ったり、目を背けがちになるのが、私たち人間だと思うんだ。
するべきこと、興味を引かれること、個々に心配事もあるだろうし、そういった日々の色々な事柄に追われて、自分の命の無常という問題に対して目を向ける機会というのは意外と少ないんじゃないかな。或いは「私は必ず死ぬ」という事実から目を逸らしがちだったり。
そういったこの「私」が教えに触れ、自らの命を見つめなおす機会をいただく。
お彼岸はそういったご縁かなとも思うんだ。
亡くなった人を偲ぶのと同時に、ぼくの命の問題を考える機会でもあるんだね!
そうだね。
そして、この無常のことわりは違った側面から大切なことを私たちに教えてくれると思うんだ。
無常という教えは、目に見えるものだけでなく、私たちの持つものごとの捉え方や考え方、価値観やイメージにも当てはまることでね。
私たちは生きていく中で、自分なりの考え方や価値観を確立していく。それが「私」を形作ると思うんだけどね。
この「私」というのは中々やっかいなもので、私たちは人とのつながりの中で生きていて、うまくいっている時は良いのだけど、時にはもめて争ってしまう。
きくひと君もけんかしたことあるかな?
うん、あるゾウ。。。
カッとして、ひどいこと言ってしまって、後で後悔するんだよね。。。
なんであんなことしちゃうんだろう(>_<)
うんうん、そういうことあるし、とってもしんどいよね。
「私」というのは、どこか自分の考え方がスタンダートというか、誰にでも通用する基準的なものなんだと、錯覚しがちなところがあると思うんだ。
「私」というフィルター付きの色眼鏡を通して世の中を見ているんじゃないかな。
「私」こそ正しいとする気持ち、「私」を基準とする気持ち
「私の方が正しい、相手が間違っている」
「私にとって好ましい物や人」
「私にとって好ましくない物や人」
↓
これらを否定されると悔しいしモヤモヤする
様々な苦しみ、悲しみや怒りという気持ちは、この「私」こそがずっと正しいという執着から生まれる。
だから仏教は、苦しみの原因である「私」への執着から離れなさいと説くんだ。
そのために無常のことわりに目覚めなさいとも。
それが出来た人が仏なの??
そうだね。
「無常」ということわりの中で生きる者には、固定的なものごとの捉え方や善悪美醜などの絶対的な価値観は本来存在し得ない。時が経てば変化し、場所・状況が違えば、ぐるりと変わる。
その様にものごとのありようをそのまま見て、知る。そうすることで「私が正しい」というとらわれから解放される。それを100%実現できる方が「仏」とされるんだ。
とっても難しそうだゾウ。。。
そうだね。もちろん100%それを実現するのは難しい(~_~;)
でもそういった仏さまの物事の捉え方、ものさしを通して、自らの自己中心性に気付かされていく。
100%は無理でも、10%でも5%でも1%でもほんの僅かでもいいので、自らの言動・思考を省み、本当にそれは正しいのか考える。正すことは無理でも省みることは出来る。そうすることが、ひいては相手の考え方を尊重する方向につながる。
そういったことを聞かせていただくのも、「仏に成る」という事を意味するお彼岸の大切な意義かなと思うんだ。
仏さまのものさしを指針として、自分を見つめなおすってことかな。
そうだね。「仏さまにお育ていただく」ってそういうことかなと思うんだ。
そういった、仏さまっていいなと感じる気持ち、憧れる気持ちは、大切に育ててほしいのだけど、ただね。
「仏」に成るということを考えれば考えるほど、どうしても届かない部分。「仏」とは程遠い、煩悩から離れられない「私」が浮き彫りになっていくと思うんだ。
浄土真宗は、そういった「私」に向けて、次のような道を説く教えなんだ。
自らの力ではいかんともしがたい部分。本当の意味で煩悩を離れ「仏」に成ることが困難な「私」が、阿弥陀さまのお浄土に導かれて「仏」となる。
「法」を見出すことが困難な「私」のために、「法」の方から「阿弥陀さま」、そして「南無阿弥陀仏」という姿を取って近づいてきてくださる。私の口から「南無阿弥陀仏」となって出てきてくださる。
その「南無阿弥陀仏」という私を救おうとする呼びかけにお任せすることよって、お浄土に導かれる。
浄土真宗の「仏」への道
●「法」に目覚めて「仏」に成ることから程遠い「私」
「法」 ←(はるか遠い)ー 「私」
●「法」が「私」のため親しみやすい姿をとり近づいてくる
「法」 → 「阿弥陀仏」 → 「南無阿弥陀仏」 → 「私」
●「南無阿弥陀仏」という私を救おうとする呼びかけにお任せすることにより、死後「浄土」に生まれ「仏」となる
自分では「法」のことわりに目覚めて執着を離れた「仏」に成れない。
だから「法」の方から、阿弥陀様や南無阿弥陀仏の姿を取って、「私」が浄土に往って「仏」に成れるよう働きかけてくれるってことかな?
なんだかすごいゾウ!!!
うん、とっても不思議ですごいことだよね。
そしてね。
お浄土に生まれた者は、そこでただ留まるのではなく、様々な手段を用いて、私たちに教えに出会えよと働きかけていてくださる。
こうも説かれるんだ。
え!!!
だったらお爺ちゃんもここにいて働きかけてくれているってこと?
今も??
そう聞かせていただいてるよ。
そういった教えのもと、今回のお彼岸や常々のご仏事のことを考えるとね。
よく、亡くなられた方のために遺族の皆さんが仏事を準備していると捉えられがちな気がするんだけど、そうではなくてね。
仏に成られた先人方の働きかけによって、今私たちは仏の教えに触れる機会を頂いたんだと。お彼岸の機会を頂いたんだと。そう味わえる気がするんだ。
死んで終わりじゃない。「法」という形を通して繋がれていく世界があるんだよと、そう聞かせてもらっているんだよ。
亡くなってそこで終わりじゃないんだね!
そう思うよ。
だから、私が仏の教えに出会い、仏の教えと共に日々大切に生かさせていただく。私も仏に成る教えに出会わさせていただく。
そのことがひいては、亡き方々に感謝すること、敬うことにつながるのではないのかなと、この様に思うんだ。
だからね。お彼岸はみなで「ありがとうございます」とお念仏させていただくのがいいんじゃないかな。
うん。わかったゾウ!
阿弥陀さま、お爺ちゃん、ありがとう!
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