常高寺山門前にある掲示板のことばです。
解説といいますか、各法語のお味わいするところを載せています。
よければご覧ください。
現在の掲示板
<法語について>
大神信章師(浄土真宗本願寺派光林寺住職 ※平成25年ご往生)の言葉から。
思い当たることばかりです。
今でしたら、今年11月の法要で屋外で稚児行列をするので、その日雨が降らないといいなぁと思っています。
これが人・時・場合が変われば「ずっと日照りが続いているから」や「明日持久走の授業があるから」などと雨を恋しく思ってしまう。
正直自分が苦手だなと思う人にも好ましい感じる人はきっといますよね。
どこまでも善し悪しを自分基準、自分中心で判断してしまう。
それが度を過ぎたり押し付けると他者を傷付けるし、自分自身も苦しめてしまいます。
阿弥陀さまはそんな私を「大丈夫?」と案じてくださっているのかなと。
そのようにお味わいしています。
なまんだぶつ。
過去の掲示板
8月~10月の掲示板(令和6年)
<法語について>
フェイスブックの「掲示板の法語」グループに寄せられた言葉から頂きました。
当たり前といえば当たり前のことなのですが、そこから眼をそらしている私に気づかされます。
「子供はいつもでも子供じゃない」
子供と話していると、どうも諭すような話し方をしてしまいます。何が正解か自分でもよくわかっていないのに。
その時々で、最善だと思えることをする他ないのですが、上から目線にならないように気を付けないとなと。
また、その時々の成長を目に焼き付けないとなとも。
そんなことを感じました。
「親はいつまでも元気じゃない」
これも本当にそうです。
昨年、先代の住職である義父の七回忌を勤めましたが、生きている間に色んなことを相談したかったなぁと、いつも思います。
いつまでもこの時間は続くと、頼ってしまいがち、問題を先延ばしにしがち。
そんな私の性(さが)に気づかされる言葉でした。
6月~7月の掲示板(令和6年)
<法語について>
福岡県上毛組(豊前市・上毛町・吉富町の真宗寺院グループ)が制作する伝道ポスターの言葉から頂きました。
耳が痛いです(~_~;)
私と他人は違う生き物、皆違う人間。本当に当たり前のことなのですが、その当たり前のことに目を背けてしまう。
ついつい「普通に考えるとこうだよね」「あの人普通じゃないよね」と思ってしまいます。
お互いが自分のことを「普通」だと思っているから、その押し付け合いでけんかになるし、なぜ私の気持ちを分かってくれないのかと不満な気持ちが生まれる。
場所・環境が異なれば考え方も違うし、自分の中においてさえ価値観はどんどん変わっていく。「普通」つまり「普く(あまねく)通じる」、固定的で絶対的な考え方などないはずなのに、それが「有る」と思ってしまう。不思議です。
仏教では、そういったものごとの道理に背く人の性を、真理に暗いという意味で「無明(むみょう)」と言います。
自分の考え方を大切にしつつも、皆違って当たり前なのだから他者の考え方も尊重する。
仏さまの教えはその大切さと同時に、その難しさ、私という人間の性(さが)を伝えてくださるように思います。
4月~5月の掲示板(令和6年)
<法語について>
フェイスブックのグループの「掲示板の法語」に寄せられる言葉から。原文のままではありませんが使わせていただきました。
人生のおり、様々なままならない瞬間。そんな時相談するのは家族や友人でしょうか。それも勿論大切なこと。
ですが相談される人にだって悩みはあり、100%向き合うことは難しいかもしれません。親しい人だからこそ知られたくないこともあります。
そもそも皆異なる条件や環境を生きる者。何をもって苦しみ悩むか、その基準は人それぞれで本当の意味で共有することは出来ません。
人間は本質的には一人だと仏教は説きます。
そんな私たち一人一人に、働きかけ、寄り添ってくださる仏さま。阿弥陀さまはそんな仏さまだと聞かせていただいております。
苦しみもその原因の煩悩も、人生の中で無くなるわけではありませんが、その現実を直視し、共に歩む力を与えてくださる。苦しい時も楽しい時も共に分かち合ってくださる。時には先生のように、時には親のように見守っていてくださる。お浄土に生まれ仏にならせていただくまでの道のりを共に歩んでくださる。「一人」だけど「独り」じゃない。
そんな仏さまが、阿弥陀さまであり、南無阿弥陀仏の言葉の仏さまなのだと、こう味合わせていただいております。
お念仏はどこでもできます。南無阿弥陀仏と称えれば、そこに仏さまが現れています。楽しいお念仏ライフを(^-^)
2月~3月の掲示板(令和6年)
<法語について>
2023年度「輝けお寺の掲示板大賞」受賞作品の一つから頂きました。
時代劇 銭形平次の「親分、てえへんだ!」のシーンのパロディ的なものかなと(^_^)
日々の生活の中では、どこか他人事になりがちな「死」。
「私は必ず死ぬ」という当たり前の真実。
その当たり前のことから目を逸らしがちな私が、その当たり前のことを当たり前に聞かせていただく場所がお寺であり、ご法事・ご法座などの仏縁であると。そんなことを感じさせていただく言葉でした。
1月の掲示板(令和6年)
<法語について>
旧年は大変お世話になりました。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
南無阿弥陀仏。
11~12月の掲示板(令和5年)
<法語について>
当寺の秋の永代経法座にて、印象に残ったことば(ご講師 藤本唯信先生)。
良くも悪くも、人は「ことば」からは離れられません。
「ことば」によって対象を定義し、認識する。
励まされることもあれば、時には傷つけてしまうこともある。
その言葉に一喜一憂し、生かされることもあれば、殺されることもある。
決めつけの言葉で、人の一生を左右してしまうこともある。
だからこそ「ことば」は大切で、細心の注意を払う必要がある。
そういったことを考えさせられるお話しでした。
そんな「ことば」から離れられない「私」だからこそ、「南無阿弥陀仏」と形変え、歩み寄り働きかけてくださる「ことばの仏さま」。それが阿弥陀さまという浄土真宗のご本尊であると、こう頂いております。
10月の掲示板(令和5年)
<法語について>
はまっています。
前月に続き、アインシュタインの言葉。
哲学的というか、仏教に通ずるような言葉が散見しているなと。
前文には「人生を楽しむ秘訣は普通にこだわらないこと。」ともあります。
原文が見つからなかったので、もしかしたら原意・ニュアンスは少し異なるかもしれませんが(汗)。
「普通」という万人に通ずる価値観は存在しない。
それが「有る」追い求め、とらわれ過ぎては、息苦しさを感じますし、それぞれの持つ可能性も閉ざされるのでは?
この言葉を聞いて、そんな風に感じました。
8~9月の掲示板(令和5年)
<法語について>
常髙寺の掲示板の言葉を変更しました。
原文は、Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.
物理学者、アルベルト・アインシュタインの言葉です。
「若年の際に身につけたものは必ずしも正しいとは限らない。思考の可能性を狭めるな。」という、アインシュタインの研究人生における教訓から発せられた言葉でしょうか。
「こうあるべき、これが正しくてあれは間違っている」
自分の価値観に照らし合わせて、ついこう思ってしまい、腹を立てたり、あの人苦手だなぁと思ってしまう。誰もに共通する普遍の常識なんてないし、皆違って当たり前なのに。。.
そんな「私」に気付かされる言葉だなと感じました。
6~7月の掲示板(令和5年)
<法語について>
フェイスブックの「掲示板の法語」という投稿グループから頂きました。
ただただ上手い(゚Д゚;)
思わず「座布団一枚」と言いたくなる言い回しです。
仏教の説く人間観。一つ違えれば苦しみのもと。煩悩やそれに伴う行為から離れることの出来ない私たちの性(さが)を、うまく言い表した言葉です。
5月の掲示板(令和5年)
<法語について>
ついつい気にしてしまうんですよね。人の悪いところを。。。
ただ、それは自分の偏った思いからきているのかもしれません。
それに人の気になるところを直すよりも、自らを省みて気を付ける方が、エネルギーは少ないと思いますし、結果的に自分のためになるのかなと。
まあ、それもとても難しいことなんですが、出来る範囲でそういう心構えでいたいなと思います。
4月の掲示板(令和5年)
<法語について>
浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」のお念仏は阿弥陀さまからの「あなたを必ず救うぞ、お浄土にて仏に成らせてみせるぞ」という働きかけ、呼び声であると頂きます。
いつでも、どこでも、辛い時でも、楽しい時でも私に寄り添ってくださる。お浄土にて仏に成らせていただくまでの道のりを共に歩んでくださる「言葉の仏さま」。
その様に頂いております。
2月~3月の掲示板(令和5年)
<法語について>
「迦羅羅(からら)カレンダー」の言葉から頂きました。
経験を重ねると周囲をとりまく状況に慣れ、効率的にものごとをこなせるようになりますが、その分「自分の見解」に固執する思いも増していくような気がします。
「私が正しいとする思いから離れよ。それは苦しみ元である」と仏教は説きます。
自分のことばかりで視野が狭くなりがちな私。
日々気をつけねばなと思います。思っても中々それが出来ない私なのですが(・_・;)
なもあみだぶつ。
1月の掲示板(令和5年)
<法語について>
新年あけましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年もまた、皆さまと共にご法縁に預かれるよう、お寺の環境を整えていければなと思います。
今年もよろしくお願い申し上げます。
12月の掲示板(令和4年)
<法語について>
「輝け!お寺の掲示板大賞2021」の受賞作品の言葉から頂きました。
いい意味で力が抜ける言葉だと思いました。
人間ですから損得を考えるのは当然なのかもしれません。
ですが、自分の利益ばかり追いかけていると何のためにこんなことしているんだろうと、疲れてしまう瞬間があります。
過ぎた執着は苦しみの元。そこから少しでも離れようというのが、仏教の基本的な考え方です。
周囲の存在があってこその私。表面的な損得ばかりを考えていると、結果的に大切な人にもしわ寄せがいくかもしれません。
「たまには損でもいいじゃない」
これぐらい自然体でいれたらいいなぁと思います。
10月~11月の掲示板(令和4年)
<法語について>
「なければ苦しむ」は何となく分かるけど、「あればあるで苦しむ」ってどういうことだろう?
こう思われるかもしれません。
よく仏教の「救い」という言葉を聞きますが、仏教の言わんとする救いとは「長生きする」や「病気が治る」、「裕福になる」といったものではありません。どんなに恵まれた状況にいても、もっと欲しいという気持ちには限りがありませんし、それを維持しようとする執着も生まれます。結果、その願いは完全には叶わないので苦しみが生まれます。
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』というお経の中に「有無同然(うむどうぜん)」という言葉があります。持っている者も持っていない者も、執着する心がある限り苦しみからは逃れられず、どちらも迷い続けているという点では同じですよ、という意味です。
仏教の根本的な目標である仏(ほとけ)とは、そういった苦しみの原因である執着・煩悩から離れた存在だと説かれます。煩悩から離れることは非常に困難な私たち。それでも、仏さまのあり様や教えを通して、自らの在り方を見つめなおすことは出来ます。お経は他ならぬ私たちに向けてのこされた言葉。「少欲知足(欲少なくして足るを知る)」という言葉もあります。まあ、とても私には難しいことなのですが、そこにほんの少しでも近づけたらいいなぁと憧れます。
9月の掲示板(令和4年)
<法語について>
西本願寺の公式インスタグラムの言葉から頂きました。
仏教には、教えを説くお釈迦さまは「お医者さま」で、それを聞く私たちは「患者」であるという有名な譬え話(たとえばなし)があります。言い得て妙の譬えだなと。
自身を「病気」だと自覚することによって、初めて「お医者さま」や「薬」の有難みが分かります。お釈迦さまは、この世に生きる私たちは、皆病んでおり、しかもそれに気づいていないと説かれました。
「私こそが正しい」
「永遠に私のもの」
「いつまでも生きたい」
「健康なままでいたい」
変わらない、絶対的なものは無いこの世の中で、それと相反するもの、叶わないものを求めてしまう。自分の都合のいいように世界を見てしまう。しかしそれは決して叶わないので苦しむ。そういった根源的な性(さが)、病気を私たちは持っているのだと言われるのです。そういった私に気づかされることが仏教の出発点になります。
その病気の「薬」として、その人その人の性質に合わせて処方されたもの、説かれたものが、お経の言葉であり、様々な修行だと思います。それらによって苦しみから抜け出た者が「仏(ほとけ)」と言われます。
お浄土やお念仏の教えは、その中でも特に末期。「末法」の世を生きる私たちに向けて用意された「薬」だと思います。本来助かりようのない者が、「仏(ほとけ)」へと成らせていただく道。その不思議な道を聞かせていただくのが、浄土真宗のお聴聞であり、ご法座の場所ではないかと。ご興味のある方はぜひお参りください。
7月~8月の掲示板(令和4年)
<法語について>
「供養(くよう)」と聞くと、人によっては言葉の字面に引っ張られて、亡き人を養っているような、下に見ているような印象が、生まれてしまいます。つい「供養してあげなければ」「供養しないとかわいそう」といった、言葉を選んでしまいがちです。
本来、「供養」の原語とされる、インドの言葉「プージャー」は、他者への「敬い」を意味します。
ご法事は、亡き人を偲ぶ節目の機会であると同時に、私が仏法、つまり仏さまの教えに触れる大切な場所です。仏「法」に出会う「事」と書いて「法事」ですね。
それは先立った大切な人達から私たちが頂いた、ご法縁という贈り物です。こう考えると、「供養」の印象も違ったものに見えるような気がします。
感謝と敬いの気持ちを持って、手を合わせることが大切なのかなと思います。
5月~6月の掲示板(令和4年)
<法語について>
西本願寺の公式インスタグラムから頂きました。とてもシンプルですが、人間に対する仏教の基本的な捉え方かなと思います。
あるお経に、アングリマーラ(本名はアヒンサ)という人物のエピソードが説かれています。「アングリ・マーラ」とは「指で作った首飾り」という意味です。多くの人々を殺し、その指を切り取って首飾りにしたとされる(こわいですね。。。)、仏典でとても有名な人物です。後にこのアングリマーラはお釈迦さまのお弟子となって悟りを得ます。
そもそもこのアングリマーラは何故殺人鬼になったのでしょうか。アングリマーラは元々、ある高名なバラモンの優秀な弟子でした。美青年でもあったようです。妻と不倫をしたとの疑いにより(えん罪)、師匠であるバラモンに恨まれ、次のように言われます。
「1000人(一説には100人)の人を殺し、その指を切り取り、繋いで首飾りにしなさい。そうすれば、お前の修行は完成するだろう」。
当然嘘なのですが、アングリマーラは戸惑いながらも師匠の言葉であるならと、それを実行に移してしまいます。999人まで殺し、いよいよ最後の1人を殺さんとした時、お釈迦さまに出会われたというわけです。
アングリマーラの説話は、「人は環境さえ整えば、どんなことでもしてしまう」ということを伝えてくれます。親鸞聖人も次のような言葉を残されたと言われます。
「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし(人は誰でもしかるべき縁が働けば、どんな行いでもするものである)」
『歎異抄 第13条』より
私が人を殺さないでいられるのは、私の性根が善だからではなく、そういったご縁が今、私に働いていないからです。周りの環境がそうであれば、自分を正しいものと正当化してどんなことでもしてしまう。それが私です。この自覚が仏教の出発点だと思います。
仏教は、「無常の世の中において絶対的な正しさ、価値基準は存在しない」という法を説きます。「人間は危うい」。だからこそ法を仰ぎ、自分自身のふるまいを見つめなおす。時に自身の正しさを疑い、可能な範囲で丁寧に生きていく。それが出来ない性根の私なのだけど、そんな私に法は常に働きかけている。仏さまという姿を取って見守っていてくださる。それが、仏さまの働きの中で生きていくということなのかなと、こうお味わいしています。
3月~4月の掲示板(令和4年)
<法語について>
私たちは、人生の中で価値観や考え方を身につけていきます。経験を積むほど自信も生まれ、どこかでその価値観は、世間一般に通ずる基準だと考えてしまう「私」がいるように思います。
「私の方が正しいはず」「普通ならこうするのに」と、「私」を基準とする気持ち、「私」を「善(ぜん)」とする気持ちから他者を責め、下に見てしまう。それは争いや苦しみを生む原因となります。
仏教は「ものごとは常に移り変わり、不変で固定的なものは存在しない」という「無常(むじょう)」「無我(むが)」の教えを説きます。万人に通ずる変わらない価値観やものごとの捉え方は存在しない。時と共に変化し、状況や立場が異なれば、「善」や「正しさ」というものはぐるりとその姿を変えます。
「私」がそうであるように、「相手」にも自身の経験に基づく「正しさ」があります。
「正しさ」に固執しがちな「私」に気づかされ、自らの姿勢を見つめなおし、他者の考え方を尊重する心が育てられていく。大切なことを気づかせてくれる言葉かと思います。
※同派(浄土真宗本願寺派)の僧侶の方々が制作した、直枉会(じきおうかい)カレンダーの言葉から頂きました。
1月~2月の掲示板(令和4年)
<法語について>
原文は「Today is the first day of the rest of your life」。映画「アメリカン・ビューティー」のセリフにも使われた、有名な格言です。
仏教には「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という教えがあります。「この世に生まれたものは、どんなものであっても時間と共に移り変わり、その形を滅していく」という意味です。
私たちは人として生を受けたからには必ず時間と共に年を重ねます。時には病気や事故など様々な影響もあり、どんな立場の人であっても必ず、人として「死」という形を迎えます。昨日から続くこの私の「命」が、明日も続く保証はどこにもありません。一見当たり前のこと。しかしこの一見当たり前のことを見失いがち、目を背けがちになるのが私たち人間なのかなと思います。
お寺という空間や様々な仏事は、亡き人を偲ぶご縁ともなりますが、この「私は必ず死ぬ」という事実に目を向けさせていただく、ご法縁でもあります。
一日一日を大切に。大切な事を気づかせてくれる言葉かなと思います。
12月の掲示板(令和3年)
<法語について>
仏教は「わたし」が「仏(ほとけ)」に成ることを目標とした教えです。
仏さまとは、移り行く世界の中で「永遠に続くものはない」「絶対的な正しさはない」とものごとをありのままに捉え、自らに固執する思いから離れた方です。
言うのは簡単ですが、とても難しい。必ずどこか自分を基準に考えてしまう「わたし」がいます。
それでもほんの少しでもいいので、「仏さまはこんな時どうするだろう?」「仏さまならどう考えるだろう?」と日々の生活を見つめさせていただく。親の背中を見て子供が育つように、仏さまの教えを指針として、自らを見つめなおし、時に自身の正しさを疑う。そうして人の考えを受け入れ尊重する心の下地が育てられていく。仏さまの教えと共に生きる上での大切なご利益(りやく)かなと思います。
そしてそうすると仏さまとは程遠い、「私に固執する思い、私が正しいとする思い」から決して離れることが出来ない「わたし」が浮き彫りとなる。そういった「わたし」が、救いの目当てのど真ん中に置かれた教えが浄土真宗であり、「南無阿弥陀仏」というお念仏の教えだと思います。
10~11月の掲示板(令和3年)
<法語について>
「我慢」というと私たちの視点からみれば一見美徳に思えます。しかしながら、仏さまの視点からみると「私の方が正しい、相手が間違っている」という、自身の思いに固執して相手を下に見る心の表れとされます。
私が「我慢」している時は、相手も「我慢」しているかもしれません。「あ、今我慢しているな」と思ったら、一度落ち着いて自身の言動や周囲の状況を見つめなおしてみるのもいいかもしれません。