【前話のまとめ】
○前回のテーマ
「空ってなんだゾウ?(後編)」
・「色即是空」=全てのものに不変で固定的な実体は「無い」。
「空即是色」=(不変の実体はないが)様々な因縁が仮に和合してここに「有る」。
→「有る」と考えても「無い」と考えても偏った見方(有無の二見を破す)。
・「中観」=「苦・楽」や「善・悪」、また「有・無」などの、偏った両辺の見解を離れる見方。ものごとのありのままを観る見方。
⇒ここまでは仏の「智慧」の話。では仏の「慈悲」とは?←今回はここじゃゾウ。
第八話 「智慧と慈悲ってなんだゾウ?」
注目ワード 「与楽と抜苦」「慈悲喜捨の四無量心」「自利と利他」「自利利他円満」
仏教は、「自分」という色眼鏡を外して、ものごとをありのままに見て、苦しみのもとである執着から離れる事を目的としているんだよね??
そうだね。それが仏の「智慧(ちえ)」。仏教はその獲得を目標とする宗教だね。
そして、仏教を語る上でもう一つ、大切なことがあると言われていてね。それが「慈悲(じひ)」なんだ。
この「智慧」と「慈悲」はよく仏教思想の要(かなめ)、二本柱として挙げられるんだよ。
「慈悲」かぁ。
言葉はよく聞くけど、どういうことなんだろう?「愛」とはちがうのかな??
うん、確かにその2つはよく似た様な状況で使われているから、混同されがちだよね。
まあ「愛」といっても色んな使われ方をする言葉だから、その差異を明確にするのは難しいかもしれないし。
ただ仏教で「愛」というと、「渇愛(かつあい)」という言葉があってね。喉が渇いたとき、何かを飲まなければ癒やされない様な、人間の根源的な欲求や執着を意味する言葉なんだけど。。
これまで話してきた様に、人の執着は、それを向ける対象が自分の思いから外れた時、怒りや悲しみ等の苦しみを呼び起こす。人が人に対して向ける「愛情」もそれは同様だというのが、仏教の基本的な立場だと思うんだ。
確かにそうかも。。。
好きな人が自分が嫌だと思うことをしてたらモヤモヤするし、自分が正しい事と思ってることを否定されたらイライラするゾウ。
思い通りになるはずがないのに、自分の都合で相手を思い通りにしたいと願ってしまう。そういう性格が僕たちにはあるんだよね。
そう、その性(さが)を「無明(むみょう)」(法のことわりに暗いこと)と言うんだね(第五話参照)。
仏教において、そういった「愛」は、あくまで執着の1つであり、「私が正しい、相手が間違っている」という自分の都合から離れたものではないんだ。
一方で、100パーセント「相手の立場」に立って考える。私の問題として捉える。この言葉が適切かどうか分からないけど、「究極の共感力」とでもいうべきものが、仏の「慈悲」だと思うんだ。
「究極の共感力」!?
どういうことだゾウ??
まず言葉の説明をするとね。「慈悲」はインドのお経の言葉(パーリ語やサンスクリット語)を漢訳したものでね。
「慈」は「メッター / マイトリー」。訳すと「友情」「親愛の情」。他者に安楽を与えようと望む気持ちを表わすから、「与楽(よらく)」とも説明されるんだ。
「悲」は「カルナー」。訳すと「哀憫」や「同情」。人の悲しみを自分の悲しみとし、他者から苦を抜こうと望む気持ちを表わすから、「抜苦(ばっく)」とも言われるね。
楽を与えんと慈しみ、苦を抜かんと憐れむ。他者の問題を他人事として捉えず、友と接する様に、更には「自らの問題として」、共に喜び悲しむ。その精神が仏の「慈悲」と言われるんだ。
文字通り他人事でなく、「自分の事」として捉えるんだね!
その100%の共感が、仏の「慈悲」ってこと?
うん。『スッタニパータ』の「メッタスッタ(慈経)」というお経には「あたかも母が自分の独り子を命をかけても護るように」とも例えられているね。自分の問題として捉えるからこそ、それだけ真剣な思いが生まれるんじゃないかな。
同経(メッタスッタ)は「よく教えの道理を会得したるものが、自由の境地を得てのちに為すべき事」として、この「慈悲」の実践を挙げていてね。
仏教は「法」という道理に目覚め、苦しみの元である「われ・わがもの」という執着から離れる事を目的としている。これが仏の「智慧」だね。そうして「我執」から離れると、おのずと他者を尊重し、対立や争いを離れようとする気持ちが生じると思うんだ。
うん、自分自身や自分の考えが絶対じゃないってことが分かるから、相手の立場や気持ちも考えるようになるもんね。
そうだね。
「我執」を離れ、「他」を慈しむ様々な美徳が生まれる。その究極形が、他者の問題を自分事にする、この「慈悲」だと思うんだ。
そして、この「慈悲」の対象は、目の前の人だけではなく、あらゆる生きとし生ける者に広げられる。「慈悲喜捨(じひきしゃ)の四無量心(しむりょうしん)」という瞑想の行が仏教には説かれていてね。
「ジヒキシャ??」
うん。さっき話した「慈」と「悲」に、「喜」と「捨」を加えた、次の4つの心だね。
<慈悲喜捨>
「慈」・・・他者に楽を与えんとする気持ち
「悲」・・・他者の苦を抜かんとする気持ち
「喜」・・・他者が楽を得るのを見て、妬まず自分のことの様に喜ぶ気持ち。
「捨」・・・他者に対して、愛憎親怨の偏った心がなく、平静で平等な気持ち。
これらの四種の心を無量に広げ、一切の人々のため、究極的には悟りに導くために向ける。それが「慈悲喜捨の四無量心」という「行」なんだ。
「行」って、自分が「仏」に成るためにするものだよね??
それがそのまま、他人のための行いに繋がるって事???
そのことを「自利」と「利他」と言ってね。自らを利する事が、そのまま他を利する事に繋がる。他を利する事が、そのまま自らを利することに繋がる。この「自利」と「利他」の関係を「自利利他円満(じりりたえんまん)」と言うんだけどね。
特に日本に伝わってきているような大乗仏教に於いて理想とされる境地だけど、初期の仏教から大切にされてきた精神だと思うんだ。
なるほど。。。
そしてその「慈悲」の心は、あらゆる生けるものに向けられるんだね。
うん。「一切の生きとし生けるものは幸せであれ」(『スッタニパータ』より)とね。
そして、それは自分の敵をも含むんだ。「自分の敵に対しても慈しみを起こすべきである」(『ミリンダパンハー』より)。
自分の敵に対しても!?
うん、人は他者との関わりを排しては生きられない「社会的な動物」。今の「私」は様々な因縁の結果成立しているわけで、その縁の中には家族や友人だけでなく、動物や虫、あるいは敵も含まれるんじゃないかな。
様々なものによって生かされている。これも仏教は「縁起」というわけで、この理(ことわり)も「慈悲」の精神の背景にあるんじゃないかなと思うんだ。
今のボクがあるのは、色んなご縁のおかげだもんね。
そのお返しの気持ちが「慈悲」の中にあるってこと??
うーん。実際お経で、はっきりそう説かれているかは、ちょっと分からないんだけどね。そうかなと思うんだ。
この他者の問題を自分のこととして捉える「慈悲」の精神は、仏教の他者を害さない姿勢にもあらわれていてね。仏教では殺生(せっしょう)が禁じられていて、次の様に説かれるんだ。
「かれらもわたくしと同様であり、
わたくしもかれらと同様である」と思って、
わが身に引きくらべて、
(生き物を)殺してはならぬ。
また他人をして殺させてはならぬ。
『スッタニパータ』より
ここでも、相手のことを、自分のこととして捉えている!!
うん、共感力である「慈悲」が働いているんだね。
自分は殺されたくない。それは相手も同様である。「わが身に引きくらべて」他を殺すな。他者を害することは、自分を害することと同じ。
この様な慈しみからくる他者への共感は、現代においても必要な素養かと思うんだ。
自分がされたら嫌なことは、人にしない。当たり前に聞こえるけど、とても大切なことだよね。
でもお釈迦さまみたいに出来るかな。。。
そうだね。
まずは、自分は自分の都合という色眼鏡をかけているんだと自覚してね。その上で、100%は無理でも、10%でも、5%でもいいから、相手の気持ちを敬い寄り添う。
そう教えに聞かせていただくだけでも、私達の生活はずいぶん変わってくるんじゃないかな。
今回はここまで。
次回は、「仏」への道筋、「行」という考え方について。一緒に考えよう。
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<よければこちらも!補足コーナー>
仏教は「私」が「仏」に成る教えです。「自分」という色眼鏡を外し、「他者」を自分の事の様に敬い、害意なく慈しむ「仏」の在り方。
確かに私達は、本当の意味で、この身このまま「仏」に成ることは難しいかもしれない。ただ「法」を通して、「法」からの働きかけを受けて、日々の生活を整える。正すことは難しくとも、言動を省みることは出来る。浄土真宗の言葉を用いれば、お育ていただく。このことも、仏さまの教えと共に日々の生活を送らせていただく、在家仏教の大切な意義かなと思います。
まあそれが中々出来ない私なんだなぁと、いつも気付かされますが(笑)、少しずつでもそういった心持ちでいたいなと思います。
※本話中の経典の訳語に関しては、中村元『ブッダのことば』【岩波書店】、前田専學『ブッダを語る』【NHK出版】、増谷文雄・梅原猛『仏教の思想1ー智慧と慈悲<ブッダ>ー』【角川学芸出版】のものを引用しています。