【前話のまとめ】
○前回のテーマ
「法ってなんだゾウ?(後編)」
・「縁起」「無常」「無我」などの「法」は全ての時空に通ずることわり。なのに人はそこに「われ」「わがもの」と永遠性・絶対性を求めてしまうが、当然叶わないので「苦」が生まれる。
・「法」を見失うことで「苦」が生まれるのだから、「法」を見出すことによって「苦」から離れなさいと基本的に仏教は説く。
・「法」に目覚めることによって、「自分」という色眼鏡を外し、ありのままの世界を見ることが出来る(如実智見)。それは「苦」にも「楽」にも偏らない境地(中)。
⇒「縁起」「無常」「無我」の「法」をより明瞭にした教え、「空(くう)」とはなにか←今回はここじゃゾウ。
第六話 「空ってなんだゾウ?(前編)」
注目ワード 「色即是空」「空」「龍樹」
きくぞう君は「色即是空(しきそくぜくう)」って聞いたことある?
知ってる!
たしか『はんにゃしんぎょう』ってお経のことばだゾウ!!
そう、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』。
実は『般若経』と呼ばれるお経はいくつもあるんだけど、その中でも要点が纏められた最も短いものが『般若心経』なんだ。正式には『般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)』だね。
浄土真宗では基本お勤めしないんだけど、四国はお土地柄もあるのかな?暗唱されている方も多いね。
「まーかーはんにゃーはーらーみーたーしんぎょー♪」で始まるよね!
どういう意味なんだろう??
あぁ、それはインドのお経の言葉であるサンスクリット語の「プラジュニャー・パーラミタ」からきててね。
意味は「完成された智慧」。だから般若心経は「智慧のお経」と言われるんだ。その智慧の中心が「色即是空」の「空(くう)」の思想なんだよ。
「くう」?
日本に伝えられている仏教の殆どは大乗仏教(大きな乗り物の意。多くの人が仏になれる教えという意味)というんだけどね。
仏教にも色んなグループがあって、大切なことだからその話はまた別の機会にしたいのだけれど、その大乗仏教というグループの基盤となる思想がこの「空」とされているんだ。
ぼくらの国の仏教にとって「空」はとても大切な教えなんだね!
だから『般若心経』は日本でとっても有名なお経なのかな?
そうかもしれないね。
そしてそういった『般若経』の「空」の思想を取り上げ、確立・大成された方がインドの「ナーガルジュナ」という方でね(2~3世紀頃)。大乗仏教の立役者的存在なんだ。
漢名を「龍樹(りゅうじゅ)」、「龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)」と言ってね。常髙寺にも掛軸として飾られているし、『正信偈(しょうしんげ)』という浄土真宗のお勤めの中にも、その名前が出てくるんだよ。
浄土真宗にとっても、とても重要な方なんだね!!
その「空」って一体何なんだゾウ??
「空」はサンスクリット語(インドのお経の言葉)の「シューンヤ」の漢訳でね。直訳すると「空(から)」や「空虚(くうきょ)」、つまり「からっぽ」という意味かな。
思想としての「空」は次の様に説明されるんだ。
「全てのものは因縁によって仮に和合して存在しているのだから、不変の実体、本体の様なものは、なにものにも存在しない。つまり空である」
だから「色即是空」は「色(=すがた・かたちのある物)すなわち、これ空なり」で、「すがた・かたちのある物は、本質的には実体がない」という意味だね。
「実体がない」っていうところを「空」という言葉で表わしているんだね。
なんだか「縁起」「無常」「無我」の「法」(※第四話~第五話参照)と似てるゾウ???
うん、そうだね。
だから龍樹菩薩は何も新しいことを説かれたというわけではなくね。お釈迦さまの説かれた「法」、つまり「縁起」「無常」「無我」を再確認し、お釈迦さまの死(入滅)後、伝わりにくかった部分、誤解される傾向にあった部分を、『般若経』の「空」という思想を用いて明らかにしようとした方だと思うんだ。
「空」の思想でどんなことを明らかにしたの???
もちろん本質的には「縁起」「無常」「無我」の「法」と同じことを説いているんだよ。つまり、いかなるものにも不変の実体はないという立場だね。
ただ龍樹菩薩の「空」の思想は「何に実体がないのか」ということを、より詳細に示しているんだ。
そこで「空」の対象には、私たち人間や物質的存在だけでなく、私達それぞれが物事に対して抱く考えやイメージ、判断も含まれていることが分かるんだ。
???
僕たち自身や回りの色んな「物」が「空」っていうのは分かるよ。時間と共に変化していく実体のないものってことだよね?
でも、僕たちが考える事やイメージも「空」ってどういうこと?形のないものだよね??
うんうん、そう思うよね。
それじゃあ少し話は変わるけど、きくぞう君はお友達に腹が立ったり、嫌だなって思うことある??
え!そんなのないよ!
・・・と言いたいところだけど、実は時々あるゾウ(~_~;)
どんな時にかな??
ん~。
自分の好きなものや好きな人を好きじゃないって言われたり、逆に自分が嫌だなって思うことが褒められていたり。そういう時にイライラしたり、モヤモヤしてるかも。。
それに自分が友達のためにしてあげたことが分かってもらえなかった時は、腹が立つし、悲しくなるゾウ。。。
うんうん。
確かに意見が違った時は、「何で分かってくれないのか」であったり「自分の方が絶対正しいのに」と思うよね。「自分ばかり我慢している」とかね。
そうなんだ。
けんかになりたくないから、いつもボクの方が我慢してるんだゾウ!
なるほど。
でも、もしかしたらそんな時は、お友達も同じ様に我慢してるかもしれないね。
ぞぞう!!
どういうことだゾウ???
前回、色眼鏡の話をしたことを覚えてるかな?
私たちは「自分の都合」というフィルター付きの色眼鏡を通して世の中を見ていてね。この色眼鏡の色は人によってみんな違う。「赤い眼鏡」をかけている人には世界は赤く見え、「黄色い眼鏡」をかけている人には黄色く見える。
だから「自分が正しい」「自分が好ましい」と思っていることが、必ずしも他の人にとってそうであるとは限らないんだ。
そう言われると。。。
自分のことばっかりで、相手のことあまり考えてなかったかも。。。
うん、そういう視点はとても大切なことだと思うんだ。
今話したのは個人間のことだけど、様々な地域や国々がそれぞれ持つ価値観や倫理観、宗教観にも同じ事が言えるんじゃないかな。
場所が変われば、考え方も風習も異なる。同じ場所であっても、時代が変われば考え方も変わる。いつまでも変わらない絶対的な「基準」は存在しないんだ。
私達の持つ価値観や論理も「無常」「無我」の「法」という「ことわり」の中の存在。絶対的な「善悪」や「優劣」「美醜」や「正誤」等の価値基準を私達は求めがちだけど、そんなものは存在しない。つまり「空」だと。仏教はこう説くわけだね。
なるほど。。。
物だけでなく、ぼくが考える正しさや好き嫌いも、「無常」「無我」で「空」なんだね。
そうだね。
そういった価値観に執着しすぎると、さっき、きくぞう君が話したような嫌な気持ちが生まれるし、けんかや争いの元となる。
だから仏教は「自分」という色眼鏡を外して、偏った見方から離れなさいと説くんだ。
うん。今度からは、けんかになりそうな時は「自分が正しい」とばかり思わず、相手の立場も考えてみるようにするゾウ!
そうだね。ひいてはそのことが相手の考え方を尊重することにも繋がるんじゃないかな。
今回はここまで。
次回も引き続き「空」の思想について考えてみよう。
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<よければこちらも!補足コーナー>
「分別」という言葉がありますが、元々は仏教語です。物事を思い計ること、区別し分析することを意味します。現代では、物事の善悪や是非をわきまえた人を讃える言葉として用いられることが多いですね。
一方、本話でも触れました様に、仏教では「善・悪」や「損・得」等の固定的な価値観、つまり「分別」は「空」のため本質的には存在せず、それに向けての執着は苦しみや争いを生むものなので、離れるべきと説かれます。
自分の考えをしっかり持つ人、自分の意見に自信を持つ人は、確かに魅力的です。しかし目立たなくても、人の立場に立って物事を考えられる人、自分の考えを省みる事が出来る人も、とても魅力的で素晴らしいことだなと思います。
自分の考えを押し通そうとしてしまいがちな私。仏さまの教えはそんな私に「それはどうなの?」と語りかけてくれます。
※ちなみに「無分別」も元々は仏教語で、「善・悪」や「損・得」「是・非」などの両辺を超えた智慧として、仏教の目指すべき境地とされます。現代語では「思慮がなく軽率なこと」という意味。意味が全く変わっていますね。